柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 季語。 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺

【柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 季語

これはかの有名な正岡子規の俳句であり、『海南新聞』1895年11月8日号に掲載された俳句であります。 正岡子規は明治25年に日本新聞社に入社し、日清戦争の記者として働いていましたが、明治28年に正岡子規は病を患い既に重病であったともいわれています。 しかしながらなんとか奈良を訪れ、その際ここ法隆寺を訪れ、その際に詠んだ俳句が『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』であるといわれています。 正岡子規は東大予備門において夏目漱石、南方熊楠、山田美妙など同窓生であり、漱石とはとても仲がよく、正岡子規が病に患ってからも療養生活の看病に必死にしていたといわれています。 奈良を訪れた正岡子規が詠んだ『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』への想い・・・ 最初に奈良の市内を散策をして、興福寺、大仏殿のある東大寺、春日大社を参拝しました。 実は正岡子規は東大寺についても俳句を詠んでおり、『長き夜や初夜の鐘撞く東大寺』『大仏の足もとに寝る夜寒哉』などがその代表とされています。 そして『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』は、療養生活の世話、奈良旅行を工面してくれた漱石に対して、漱石の作である「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句へのお礼の句であるといわれています。 季語は柿でありこれは秋の象徴でもあります。 この句でいう柿は大和名産の御所柿と考えられています。 『法隆寺の茶店に憩ひて』と前書きがあり、法隆寺に立ち寄った後、喫茶店で一服して柿を食べていると法隆寺の鐘が鳴り、その鐘の音色に秋の訪れを感じた、というのがこの句に込められて正岡子規の想いでもあります。 尚、「くへば」一見逆説にも思われがちですが、単に「食べていたら」という事実を述べているにすぎず、「鐘が鳴るなり」と特別に因果関係があるわけではありません。 ちなみに正岡子規が法隆寺を訪れた10月26日とされ、この日はこの句にちなんで『柿の日』にも制定されています。 この句は実際に詠まれたのか しかし正岡子規が法隆寺を訪れた日は、雨であったとされこの句は実際に詠まれたかどうか疑問点も残されています。 また正岡子規は奈良を訪れた際には、かなりの病状も悪化をしていたと考えられており、実際に法隆寺を訪れることができたのかという点も疑問点に残されています。 もしかすると、病で床についていた正岡子規は、外で秋の訪れを感じたいという自分自身の願望をも句にしていたのかもしれません。 奈良の観光は、正岡子規にとって最後の旅行であり、明治35年に35歳の短い生涯を終えました。 しかしこうしてこの句をきけば誰もが法隆寺を思い出し、法隆寺は今世界遺産に登録をされ、人々から愛されるお寺となっていることは、正岡子規にとってもきっと喜ばしいことに違いありません。

次の

柿の葉ずし総本家 平宗(法隆寺店)

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 季語

スポンサーリンク (1)松尾芭蕉の「柿」の俳句 まずは、江戸時代の俳諧師から・・・ 柿の木は江戸の人々にとっても身近なものでした。 甘柿だけでなく渋柿を干し柿にして冬の甘味として楽しむこともありましたよ。 田舎にはどこの家にも柿の木があったと、 松尾芭蕉が俳句で伝えています。 柿の木のない家はない。 (家々の柿がたわわに実っている)」 川かぜや 薄柿着たる 夕すずみ (2)服部嵐雪の「柿」の俳句 服部嵐雪(はっとりらんせつ)は芭蕉の弟子で、芭蕉の弟子の中でも特に優れた10人 「蕉門十哲」の1人に数えられる俳諧師です。 柿とは関係ありませんが、 すごく有名なのでこの句は知っておくと素敵ですよ。 猶石にしぶ 柿をぬる 翁かな ひとり旅 しぶ柿くうた 顔は誰 串柿の 袖を引しか 雛の中 木がらしに 梢の柿の 名残かな (3)正岡子規の「柿」の俳句 「柿」の俳句と言えばコレというほど有名なこの俳句は、正岡子規のものです。 大好きな物を題材にした俳句は、特にその人の心情がよく表れるなと思えますね。 次の2句も奈良と柿の俳句です。 でも、晩年肺結核で体が弱ったとき、食べたいのに食べられない状態になっていきます。 柿が食べられない悲しさというより、いろんな事が思い通りにできなくなったもどかしさ、悲しさが次の3句から伝わります。 高浜虚子に俳句を学んでいましたが、後に離反しました。 ホトトギス派の代表といわれた 「ホトトギス四S(シイエス)」の1人です。 「ホトトギス四S」は、水原秋櫻子、山口誓子、阿波野青畝、高野素十の4人ですよ。 秋深く 歯にしむ柿と 思へども 風雲の 秩父の柿は 皆尖る 雲脱ぐは 有明山か 柿赤し (5)山口誓子の「柿」の俳句 山口誓子(せいし)は京都の俳人で、本名は山口新比古(ちかひこ)という男性です。 ホトトギス派を代表する「ホトトギス四S(シイエス)」の1人でしたが、後に水原秋桜子についてホトトギスを離脱しました。 「ホトトギス四S」は、 水原秋櫻子、山口誓子、阿波野青畝、高野素十です。 柿を食ふ 君の音また こりこりと これを見て 美濃の豊かさ 富有柿 君が食ひ わが食ひ柿 の音つゞく 柿山に 見えざる柿の 方多し 柿山の 墓山ここに 永眠す (6)飯田蛇笏の「柿」の俳句 飯田蛇笏(いいだだこつ)は山梨県出身の俳人で、本名は飯田武治といいます。 同じく俳人の飯田龍太は蛇笏の息子です。 雲霧や 嶽の古道 柿熟す 山の霧 罩めたる柿の 雫かな 山柿の ひと葉もとめず 雲の中 山柿の 雨に雲濃く なるばかり (7)山口青邨の「柿」の俳句 山口青邨(せいそん)は岩手県出身の俳人で本名は吉朗といいます。 本職は 鉱山学者で、師匠は高浜虚子でした。 ぽきぽきと 柿の剪定 午后もつづく とがりたる ここらの柿は 良寛の柿 とりし柿 机に三日月 柿の木に 干柿の 金殿玉楼と いふべけれ 柿あまた 籠に盛りたる かがやきに 柿たわわ 烏見おろし 人見あげ 柿に来る 鵯の歓喜の 虚空より 柿のせて わが手御仏の 手のごとく (8)夏目漱石の「柿」の俳句 夏目漱石は正岡子規の友人で、子規から俳句を学んでいました。 「こころ」「吾輩は猫である」など、今もベストセラー作家の漱石は、文豪として知られますが、実は生涯に 約2400句もの俳句を残しています。 たくさん詠んでいますね。

次の

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 季語

ikkubak 日刊:この一句 バックナンバー 2005年11月10日 鈴なりの柿の古里素通りに (季語/柿) 能勢京子 いまごろの田舎は柿が鈴なりだ。 その柿の木に日がさすと、まわりがぽおっと明るくなる。 柿明かりである。 今日の句は柿がいっぱいの古里を素通りしたというのである。 素通りは残念だが、でも、この句には素通りを楽しんでいる気配もある。 ままならぬのが人生だ、という達観に近い心境なのであろう。 作者の京子は1939年生まれの船団の会会員。 このほど、第一句集『銀の指輪』(青磁社)を出した。 この句集、全体を四季に分け、彼女自身の俳画を各章の冒頭に載せている。 この人、俳画教室を主宰する俳画の先生なのだ。 「河馬の尾のぽろと外れて冬隣」は秋の部の末尾の句。 たしかに河馬の尻尾ははずれそうなくらい小さい。 (坪内稔典) 2005年11月9日 酒屋米屋駄菓子屋本屋しぐれくる (季語/時雨) 小田島季走 ひと昔前の風景である。 今のコンビニ型の酒屋や米屋ではなく、それらが個人商店だった時代の時雨がこの句のそれ。 本屋も今のような大型チェーン店でなく、本好きな主人がはたきをかけながら店番をしているのだ。 この句、1983年作だが、この年には次のような時雨の句もある。 「時雨より自転車早し坂の町」「競り市の声美しくしぐれ来ぬ」「片恋やしぐれの鳩に声かけて」。 これらの時雨も日本列島がいっせに都市化する以前の時雨だ。 今日の句の作者は1945年生まれ。 小説家の結城昌治を中心にして発足した「くちなし句会」のメンバーである。 「泣きたい日男にもあり冬帽子」「近づけばみな疵を持つ冬木立」。 このような句がこの人の第一句集『だんだんみんなゐなくなる』(角川書店)に並んでいる。 (坪内稔典) 2005年11月8日 柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺 (季語/柿) 正岡子規 明治28年11月8日、四国・松山の「海南新聞」にこの句が載った。 12句が俳句欄に出ているが、その最後に「茶店に憩ひて」の前書き付きでこの句が出ている。 同時に出ているのは「笛吹くは大納言なり月の宴」(漱石)、「垣もなし野分の中の一軒家」(孤松)など。 子規の柿の句はその後、『獺祭書屋俳句帖抄』(明治35年)で「柿喰へば」が「柿くへば」へ表記が変わった。 昨日は長野県岡谷市で「正岡子規と日本語革新」という話をした。 来週も同じテーマで続きを話す。 この講座、地元の銀行の八十二文化財団の主催である。 諏訪湖のあたりは学生時代に夏をすごしたので懐かしい土地。 そのような土地で話をするめぐりあわあせを楽しんでいる。 (坪内稔典) 2005年11月7日 秋の夜の鉄工所だから河馬つくる (季語/秋の夜) 南村健治 灯をともして作業をしている小さな鉄工所。 オヤジと若い弟子がせっせと何かを研磨している。 ふと気づいた。 ここでは河馬が作られているのだと。 そうだ、ネンテンさんに教えよう、彼はここに弟子入りしたくなるかも。 健治はいい気分になって家路についた。 大きな梨を一個、小脇に抱いて。 というような句であろう。 この句、健治の第一句集『歩く魚』(1994)にある。 「だから」という屈折が強引だが、詩を一挙に作る剛力の発揮でもある。 健治は1947年生まれ。 団塊の世代を代表する俳人の一人だ。 (坪内稔典) 2005年11月6日 女らは声深めゆく実むらさき (季語/実紫) 加藤知世子 「実むらさき」は紫式部。 今の時期、あちこちでこの木の紫の実を見かける。 今日の句は青柳志解樹の『今日の花明日の花』(飯塚書店)から引いたが、この本の紫式部の解説は以下の通り。 「ムラサキシキブは庭に植えられているが、元来、山育ちである。 晩秋のころ、山中でよく見つけるが、その名を思うと違和感が頭をかすめる。 名前が立派すぎるのだ。 平安朝の才媛紫式部の優雅さは感じられない。 それとは別に素朴な美しさなのである。 先年、この名について中村浩博士が新説を公にした。 ムラサキシキブはムラサキシゲミ(重実)からシキミに転訛し、これがさらにシキブに転じたのだと断じた。 この説に私は納得する」。 このように述べた青柳は、掲出句にムラサキシキブの「本来の素朴な美しさが息づいている」と言う。 (坪内稔典) 2005年11月5日 俳諧の秋さびてより二百年 (季語/秋) 正岡子規 子規庵を訪ねた翌日は取材のために京都の東福寺へ行った。 そこで芭蕉の句を見つけた。 芭蕉の200年忌を記念して不識庵聴秋が中心になって建てた「古池や」の句碑だ。 聴秋は当時の代表的な旧派の俳人であり、京都で「鴨東新誌」という雑誌を出していた。 今日の子規の句には「はせを翁二百年忌といふ今年」と前書きがある。 子規はこの年、「芭蕉翁の一驚」を書いた。 芭蕉が「冥土日報」に広告を出し、自分の名を利用して碑を建立すると「諸国の俳人にねだり金銭を寄付」させる者があるが、自分には全然関係がない、と告げる。 戯文のかたちで子規は当時の俳句界を痛烈に批判したのだ。 (坪内稔典) 2005年11月4日 芭蕉破れて書読む君の声近し (季語/芭蕉) 正岡子規 「羯南氏住居に隣れば」と前書きのある明治26年の句。 羯南は子規の勤めた日本新聞社社長である。 子規の病が悪化した晩年、隣の羯南が来て子規にさわると、子規の痛みがなぜかやわらいだ。 先日、久しぶりに根岸の子規庵を訪ねた。 保存、顕彰活動が活発になって、子規庵が明るくにぎわっていた。 庭続きには売店も出来ていた。 かつては閉まっていることが多かったが、今では連日開いている(月曜日は休庵)。 周辺の家々にも子規の句が掲示されており、いかにも「子規の町」という感じになってきた。 子規好きとしてはとてもうれしい。 (坪内稔典) 2005年11月3日 候補者の握手や雨の文化の日 (季語/文化の日) 松永典子 文化の日の情景をスナップ写真のようにとらえた句だが、雨に濡れた候補者のようすが今日の文化のように感じられるところがみそ。 この句、典子の新句集『埠頭まで』(富士見書房)から引いた。 文化の日には文化勲章や文化功労者が表彰されるが、今年の文化功労者には俳人・森澄雄が選ばれた。 めでたいことだ。 めでたさついでに言えば、金子兜太なども早く文化勲章をもらってよいだろう。 戦後の俳句をリードしてきた第一人者はなんといっても兜太なのだから。 もっとも、兜太などは勲章を拒否したらすごく格好がよい。 国(体制)からの距離をとることもひとつの鮮明な文化的態度だから。 (坪内稔典) 2005年11月2日 柿吊られ酒売る店のはや灯す (季語/柿) 角川源義 晩秋の場末の光景が目に浮かぶ。 酒売る店は立ち飲み屋のような店であろう。 その店の2階の窓あたりに柿すだれが垂れているのだ。 この句、『角川源義読本』(角川書店)から引いた。 「あんぽん柿井上靖水洟(はな)すする」「はらからは今日をかぎりの柿ちぎる」「かはたれの鴉啼きたつ柿青く」「信濃柿赫し敗兵の日を思ふ」。 これらは掲出の句を含めて源義の第一句集『ロダンの首』(1956年)にある。 その頃、今よりもまだ柿が存在を主張していた。 ともあれ、角川書店を起こした源義は、その一方で学者、俳人というマルチ人間だった。 それに、戦後の俳句は彼と角川書店に大きく影響を受けている。 源義を読み直したい。 (坪内稔典) 2005年11月1日 おでん屋の丸椅子足して譲らるる (季語/おでん) 楠原幹子 「丸椅子足して譲らるる」がいかにもおでん屋の風情。 尻と尻が大根や玉子がぶつかるように触れ合っているだろう。 この句、作者の第一句集『白卓布』(本阿弥書店)から引いた。 作者は1941年生まれ、「沖」で学んできた人だ。 「更待やぬれ甘納豆買ひもして」「年寄が掃きをり秋の祭あと」「「肩パッドなじめり富士に雪が来て」などが『白卓布』にある秀句であろう。 ことに肩パッドの句はなんともおかしい。 肩パッドと富士山の取り合わせが絶妙だ。 話題は変わるが、はやくも11月である。 どうも時間の早さについていけない。 おそらく、ついていこうとすることが間違っているのだろう。 現代社会の時間ではなく、草や木や小鳥の時間に合わせせることにしたいと思うのだが。 (坪内稔典).

次の