鈴木善幸 家系図。 おすすめ家系図ソフトを使った家系図の書き方

宮澤喜一の家系図は?孫・宮澤エマや息子、娘は?父親や妻、親戚は?

鈴木善幸 家系図

前回、連載初回にして吉田茂のお墓にフラれました。 しかし、その空っぽの吉田茂さんのお墓の横には重要な方が眠っていました。 その名は麻生太賀吉(たかきち)さん。 往時の麻生鉱業社長、麻生セメント社長。 九州電力会長にして衆議院議員。 麻生太郎副総理・金融担当大臣のお父さまです。 麻生太郎の家系図がロイヤルすごすぎる 麻生太賀吉さんは吉田茂の娘婿でもあります。 吉田茂の三女・和子さんが麻生太賀吉さんに嫁ぎ、ご夫妻に生まれた長男が麻生太郎副首相というわけです。 吉田茂も麻生太賀吉さんもカトリック。 義理の親子だからお墓が隣にあったわけですね~。 家系図にすると、こんな感じです。 て、天皇家です…! 麻生太郎副首相の妹・信子さんが寛仁親王妃殿下であらせられます。 実の妹が皇族で、姪も皇族(彬子女王・瑶子女王)とか…。 麻生太郎さん、マジでロイヤルすごいです…。 麻生太郎の家系図は歴史偉人的にもすごい 麻生さんのひいおじいさんは、明治・大正・昭和に渡って活躍した政治家の牧野伸顕です。 帰国後、外務省を始まりに政界に進出。 大臣を歴任しました。 牧野さんも青山墓地に眠っています。 伯爵閣下にふさわしい風格あるお墓です。 しかもとっても…巨大です。 その牧野伸顕の実父は、ななんと大久保利通なのです! 大久保利通は幕末、明治維新の偉人。 歴史ドラマに出てくる人。 教科書のあのヒゲの写真の人です~! 大久保利通といえば「富国強兵」をとなえて、近代日本の礎を築いた政治家ですよ? そんな偉人のやしゃごが麻生さんなのです…。 学校の試験で、自分のひいおじいさんが問題に出てくるってどんな気持ちなんでしょうか? 麻生太郎、マジで半端ないっす(泣) 首相のしゅうとは首相 ところで、麻生太郎さんの奥さま・千賀子さん。 千賀子さんのお父さまは、鈴木善幸 第70代内閣総理大臣なのです。 岳父が首相、自分も首相とは、麻生太郎…ヤバすごすぎる。 こんな人が「ゴルゴ13」を読み、「ローゼン閣下」と呼ばれているのかと思うと笑いも乾いてしまいそう。 タロサ、とんでもねえお人です。 ついでに、千賀子さんの実弟(=麻生太郎の義弟)は、小泉内閣で環境大臣を務めた、衆議院議員の鈴木俊一さんです。 麻生さんのはとこには、参議院議員の武見敬三さんがいます。 筆者は今回、吉田茂さんのお墓をまいらせてもらおうと思い立ち、日本の政治家の血筋での繋がりをかじりました。 …政界を支配する華麗なる一族たち。 その一端に触れたばかりであることを、新米墓マイラーであるわたしは、この時まだ知る由もなかったのです…! 中村クミカ:フリーライター(乙女座) 「好奇心を治す薬はない」を胸に、紙媒体からFMラジオ、映像、Webを興味と時の流れに身を任せて漂流中。 寄港先ジャンルは、歴史(日本史)・SF・占星術・UKアイドル・香港スター・ジャニーズ事務所・歌舞伎・クラッシック音楽など。 近年うっかりロシア・アヴァンギャルドに心惹かれ、中道右派の自分の中に共産趣味を新発見。 編集部より:この記事は、選挙ドットコム 2015年11月29日の記事『政界の華麗なる一族! 麻生太郎の家系図はロイヤルすごい(墓マイラー中村クミカ巡礼記.2)』を転載させていただきました(タイトル改稿)。 オリジナル原稿をお読みになりたい方はをご覧ください。 なお、アゴラでは寄稿者は原則実名制とさせていただいていますが、この連載は配信元が身元確認の上、契約している筆者であること等を考慮し、ペンネーム原稿を掲載しました。 ご了承ください。

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鈴木俊一(五輪相)の秘書は誰で名前や経歴は?息子と娘も含めた家系図が凄い?

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宮澤喜一の父親と、母親の実家は? まずは 宮澤喜一元総理の 父親や母親といった、 実家の家系から 見ていきましょう。 宮澤喜一元総理の 父親の名前は 宮澤裕 ゆたか さん。 宮澤喜一元総理の父親は、 元山下汽船の会社員で、 衆議院議員をつとめ、 鉄道政務次官をつとめています。 一方、 宮澤喜一元総理の 母親の実家も政治家の家系で、 母方祖父は、 戦前の大物代議士だった、 小川平吉です。 宮澤喜一の兄弟は全員が、東大卒の官僚 さて、 宮澤喜一元総理の 兄弟について 整理していきます。 宮澤喜一元総理は 3人兄弟の長男で、 弟が2人います。 宮澤喜一元総理の弟の名前は、 次男が宮澤弘さんで、 三男が宮澤泰さんといいます。 宮澤喜一元首相の 三人兄弟は、 全員が東大卒の元官僚で、 長男の宮澤喜一さんが大蔵官僚。 次男の宮澤弘さんが内務官僚 戦後、自治省へ 三男の宮澤泰さんが外務官僚でした。 宮澤三兄弟として とても優秀な兄弟、 ということで知られていました。 宮澤喜一の家系図!子供は何人? では 宮澤喜一元総理の 家族について 家系図を見ていきましょう。 宮澤喜一元総理 大正8、宮澤裕長男 東京帝大法学部政治学科卒 高文行政科、外交科各合格 大蔵官僚を経て政界入り 参議院議員 当選2回 、衆議院議員 当選12回 第78代内閣総理大臣、第15代自民党総裁 妻・庸子さん 大正9、早大名誉教授・伊地知純正さん二女 東京女子大英文科卒 長女・啓子さん 昭和21 慶大卒 駐日代理大使・クリストファー・ラフルアーさんに嫁す 長男・裕夫さん 昭和24 早大卒 建築家 同妻・悦子さん 昭和27 三井液化ガス相談役・郷裕弘さん長女 宮澤喜一元総理の 家族は妻のほか。 子供が2人という構成で、 娘と息子がいます。 宮澤喜一元総理の娘は アメリカ人外交官と結婚しています。 宮澤喜一の息子は建築家!妻の家系は鳩山由紀夫に通じる そして 宮澤喜一元総理の息子は 建築家であり、 妻の悦子さんは、 ブリジストンの創業者、 石橋正二郎の孫にあたり、 鳩山由紀夫元総理とは、 「いとこ」になります。 つまり 宮澤喜一元総理と鳩山由紀夫元総理の 家系は、 極めて近い親戚同士ということに なりますね。 宮澤喜一の孫は、タレントの宮澤エマ それから 宮澤喜一元総理といえば 孫が タレントで女優の 宮澤エマさん、 というのはよく知られています。 宮澤エマさんは 宮澤喜一元総理の長女の娘、 という関係であり、 つまり 宮沢エマさんは、 宮澤喜一元総理の孫、 という関係になります。 宮澤喜一の兄弟の家系図 それから 宮澤喜一元首相の 家系図の広がりを 見ていくために、 宮澤喜一総理の 弟たちの家族を家系図で 確認しましょう。 そして 宮澤喜一元総理の弟、 宮澤弘さんも、 その息子の宮澤洋一さんも 元官僚出身の国会議員です。 宮澤喜一の末弟、宮澤泰の家系図 ついで 宮澤喜一元総理の 末弟の、 宮澤泰さんの 家族の家系図です。 宮澤泰さん 大正12、宮澤裕三男 東京帝大卒 西ドイツ大使 妻・汪子さん 昭和4、東大名誉教授・児島喜久雄さんの三女 東京女子大英文科卒 長女・ゆりさん 昭和30 ICU卒、ジョージタウン大言語学修士課程修了 吉國真一さんと結婚 二女・そのさん 昭和36 上智大英語学科卒 ソニー勤務・石塚茂樹と結婚 宮澤喜一元総理の弟の 長女は、 日本銀行勤務の吉国真一さんと結婚。 吉國家も 官僚の名門家系であり、 吉国真一さんの父親は 元大蔵事務次官の吉国二郎さん、 そして伯父は 元内閣法制局長官で プロ野球機構コミッショナーをつとめた、 吉国一郎さんです。 また、 吉国真一さんの弟が、 NHK専務理事であり、 吉国浩二さんといいます。 宮澤喜一の家系図は、鈴木善幸や麻生太郎ともつながる また、 宮澤喜一元総理の 関係親族を家系図で 探っていくと、 多くの官僚や政治家がいます。 宮澤喜一元総理の 母方の叔父は、 実家の小川家から、 堤家に養子に入った方ですが、 この叔父、 堤平五さんの娘は、 鈴木善幸元総理の息子、鈴木俊一議員と 結婚しています。 そして、 鈴木善幸元総理の三女は、 麻生太郎元総理の妻なので、 宮澤喜一元総理の家系図は 近いところに 鈴木善幸元総理と、 麻生太郎元総理もいることになり、 近い親戚に、 たくさんの政治家がいるんですね。 というわけで、 宮沢喜一元総理の 「家系図は? 子供は息子と娘で、孫は女優で宮澤エマ? 妻や父親、母親、兄弟は? 親戚は元総理ばかり? 」 といった話題について見てきました。

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鈴木善幸

鈴木善幸 家系図

来歴・人物 [ ] 前半生 [ ] のアワビ、スルメ漁、水産加工業を営むの家に生まれた。 また鈴木家は屋号「黒米屋」と呼ばれる米屋でもあった。 父の善五郎はに従軍した際の戦傷で漁に出られなくなったこともあり、男手の無かった妻・ヒサの実家 の商売を切り盛りしていた。 を経て東京水産大学における前身の(現・)に入学。 を患い1年休学し実家での療養中に津波に遭遇し、地元における被害の大きさを目の当たりにしたことが、後に政治家を志すきっかけとなる。 学生時代に弁論大会で網元制度の前近代性に疑問を投げかける主張を行ったことがあり、就職時に思想傾向を理由に不採用になったこともある(思想とみなされた)。 水産講習所卒業後、日本水産界の総帥と言われた大日本水産会会長のの秘書となり、全国漁業組合連合会、岩手県漁業組合連合会に勤務したのち、中央水産業会企画部次長を務めた。 中の(昭和19年)にはのに赤紙され3ヶ月の訓練を受けるも、分隊長の「君は水産物の供出とか集荷とか、水産の大事な仕事をしていたようだから軍隊よりそちらで働く方がお国のためになる」という計らいにより、召集を解除され元のポストに復帰する。 議員としての活動 [ ] (昭和22年)にからに出馬、初当選。 水産常任委員会の委員として、の設置をはじめやの成立等戦後の水産政策に大きな役割を果たす。 後、に移る。 しかし、襲来により地元が大きな被害を受けると復興のため奔走するも弱小政党だった社会革新党の議員ゆえに何も成果を残せない現実に幻滅、ついに次期総選挙への不出馬を明言するに至るも一方で支持者からは鈴木の与党移籍を求める声が高まり、同郷の先輩代議士の引き合いで率いるに移り、以後政治家となる。 後はのに所属。 池田に側近として可愛がられたこともあり、その後はトントン拍子に保守政界での地位をのぼりつめる。 のとして初入閣。 ではに就任するが、すぐに池田首相が病気で退任を受けたで前内閣のメンバーが留任させるを取る中、官房長官人事のみ佐藤派のを就任させたため、退任となった。 その後、では官房長官退任となった代わりとしてに就任した。 その後、でなどを歴任。 党を10期務めるなど、裏方で力を発揮する調整型の政治家とみなされていた。 『』では大平派の参謀として、福田派の、田中派のらと共に挙党体制確立協議会(挙党協)を主導する。 の退陣後の『』でも大平派の大番頭としてこれを取りまとめ、が総理総裁になった際には、に起用されかけたが、・二階堂進と関係が近すぎるとしてなど反主流派が反発し取りやめになっている(が就任)。 一方では、盟友の田中角栄と組み、後のの前身となる・・の開通を進め、また県内の選挙戦勝利の見返りとしての設置を首相に働きかけたり、岩手と秋田を結ぶ()の建設、のへの誘致、地元選挙区の岩手県(現・)にはを建設したり、実施第一次計画ではまでの予定であったを、地元のまで延伸させるよう強い圧力をかけたとされる などによる地元還元をする政治家としての側面も存在した。 自民党総務会長、鉄建審会長として地元の鉄道網、漁港、港湾、道路、、の整備に影響力を発揮した。 ただ、早期のインフラ整備は「オリンピックに向けての公共事業が少なすぎる」と、1998年盛岡オリンピック構想を長野に持っていかれた一面を指摘する声もある。 [ ] 大平内閣期 [ ] 自民党総務会長として、後3度訪中し当時のの最高指導者であったとも会談しており、の5月 の会談ではの棚上げと、日中両国による海底資源の共同開発の提案があったという。 論者であった鄧はさらに鈴木に、日本からの政府借款を受け入れたいという旨と、土地を提供するから共同で中国国内に兵器工場を作りましょうという話を持ち出してきた。 鈴木は「これには正直言って驚いた。 日本としては対米関係などを考えると大変なことで、出来るわけはない。 私は、日本はの趣旨から言って諸外国とそういう面での共同の仕事は基本的に出来ないし、考えてない、と即座に断った」「この話は単なる外交上の駆け引きとして出してきたという印象ではなかった。 真剣だった。 今思うに当時、中国としても軍備の近代化を考えていたんだろう。 (中略)日中共同の兵器工場建設の提案を断った代わりに、の件は約束通り実行した。 」と語っている。 大平首相の急死 [ ] (昭和55年)5月、自民党が過半数を占める衆議院で、社会党提出の採決に、、などの自民党議員が多数欠席し、不信任案が可決された。 大平首相はこれに対抗して()することとし、の日程を繰り上げて、初のを行うことにした。 だが、大平は選挙戦突入の初日に心臓発作で倒れ、選挙戦中盤に死亡する展開となった。 選挙結果は、首相の憤死への同情から、衆参両院における自民の圧勝となる。 国民は自民の内紛に嫌気がさして、野党支持が自民党支持を上回っていた。 このような状況での内閣不信任案可決と解散とに財界は困惑し、の会長は、記者会見で「1番悪いケースになった。 ……不満を禁じえない。 この際、自民党がもっと結束してことに当たってほしかった」と述べた。 自民党は、この同日選挙に向かって、財界に50億円の政治資金拠出を要請、財界側は自民党の分裂回避を条件として応ずることとなった。 これを契機に、反主流派の新党論も消滅し、同時にの側も、不信任案審議時の欠席者の責任を不問にした。 大平首相が死去したとき、官房長官がの規定によりを、が総裁臨時代行を務めたが、選挙は主流派を代表する形で、総務会長の鈴木善幸が財界との交渉も含め取り仕切った。 鈴木は総理を目指すのではなく、大平を総理にすることに努力してきた人間であった(ただし鈴木は大平首相が緊急入院した際、選挙後の大平の自発的な退陣とその後の暫定政権論を記者団にもらしており、病床の大平を「浅薄な腹黒者。 不謹慎極まりない」と激怒させている )。 選挙が圧勝で終わったとき、不信任の可決から始まった騒動だけに、大平を追い込んだ形となった、ら反主流派が名乗りを上げるのは困難だった。 は依然として総裁を出しにくく、暫定案として考えられていた西村副総裁も落選していた。 または不信任案に反対したものの、であったの信頼をまだ勝ち取っていなかった。 こうして、引き続き大平派から総裁を出すのが自然な流れとなったが、首相臨時代理であった官房長官の伊東は「親友が亡くなったばかりなのに、とても首相になる気はしないよ」と固辞。 派の次世代リーダーであるは本命であったが田中から嫌われており、また大平との関係もやや疎遠だったことがマイナスに作用した。 結果として大平・田中連携の要の位置にあった鈴木が大平政権を継承する形で総理・総裁の座に就任することになった。 鈴木は、大平の初盆の日に自民党で総裁に選出されたとき、「もとより私は総裁としての力量に欠けることを十分自覚している。 しかし、その選考の本旨に思いを致し、総裁の大役を引き受ける決意をした」と、異例の挨拶を行った。 なお、後に鈴木は「カネを一銭も使わないで総裁になったのは、僕がはじめてじゃないか」と述べている。 なお、日本社会党在籍経験のある内閣総理大臣としては、以来であり、社会党在籍経験のある初めての自民党総裁である。 首相に選出された際、海外での知名度不足からアメリカのメディアに「ゼンコー フー? (Zenko who? )」と言われた。 明治生まれとしては、最後の内閣総理大臣であった。 鈴木政権 [ ] 、にて (「」「」も参照) 自民党ではハプニング解散まで引き起こした党内抗争を倦む空気が強かったこともあり、らしい「和の政治」をスローガンに掲げた。 財政収支が悪化していた国庫財政を立て直すため、財政改革では(昭和59年)までの脱却を目標としながら増税論を抑えながら無駄な支出を削減するという方針を示し「」を掲げた。 (会長)を発足させ、伴食大臣にみなされがちな長官に「ポスト鈴木」に意欲を燃やしていたを充てる、反主流派からも河本敏夫・を中曽根と釣り合うポストで処遇、宏池会からも官房長官に政策通のを起用し伊東正義・・など有力議員を入閣させる、など人事調整も巧みであった。 様々な派閥及び族議員による支出要求に揉まれる中で鈴木は持ち前の絶妙なバランスを生かしながら主流派離脱を抑えながら少しずつ支出の削減を進め、最終的には全派閥を主流派入りさせた上で反執行派閥という存在を事実上無くし、自民党内で究極の「和の政治」を実現した。 行政改革方針は後の中曽根行革への道筋を付けることになったが、「和の政治」からの昇華以上に、中曽根行革ではに邁進することになる。 の問題があったの選挙についてはに改めた。 また現職の内閣総理大臣として初めてと、復帰後のを視察した。 また財政難から月例給の4. 鈴木行革 [ ] 鈴木内閣発足時、国債残高が82兆円まで達しており財政再建は目下の課題であった。 3月、を会長とするが発足する。 鈴木は「昭和57年度予算編成への具体的改革案を今夏までに求める」と臨調に要請し、またの総会においてに「政治生命をかける」と発言し並々ならぬ意欲を見せた。 鈴木の意向を受けたでは前年度予算からの伸び率をゼロにする、ゼロが正式に決定された。 7月には第二臨調が医療の適正化や行政の合理化を唱えた一次答申を示し、臨調の答申を最大限尊重し実施することが閣議決定された。 鈴木はまとめられる省庁の歳出削減事項を一本化した法律にまとめて成立させる方向で、行革関連特例法として10月にはで11月にはを通過して成立した。 こうした中成立した昭和57年度予算は稀にみる抑制予算となった。 9月16日には「財政非常事態宣言」と言われるテレビ演説を行い、更に徹底した歳出削減と赤字国債の増発で「未曽有の困難」を乗り切る必要があると訴えている。 その翌月の10月には鈴木は退陣するものの、鈴木が敷いた行革への方針は続くへと引き継がれていく。 総合安全保障 [ ] の時代が終焉し米ソが激しくなる中で鈴木は、「わが国はのもと、を国是とし、のもとにに徹した施策をとっており、近隣諸国に脅威を与えるようなになる考えは毛頭持っておりません」「わが国に対する核の脅威や攻撃に対しては、米国との安全保障体制に基づき、米国の核のに依存するとともに、これを抑止することが最も賢明な道と考えるものでございます。 政府としては、このような考え方を変える考えは持っておりません。 」 と、米国のの下で専守防衛の原則を貫き、に基づく着実な防衛力の整備を示した。 鈴木は大統領との会談で専守防衛の日本の防衛政策を 「吼えるライオンより、賢いハリネズミでありたい」と表現している。 また大平政権のブレーンであったらの唱えた『』の概念を導入し、軍事力のみに頼らない経済や外交を含めた総合的な安全保障体制を目指すとして、12月、国防会議とは別の組織としてにを設置した。 日米『同盟関係』問題 [ ] 元々社会党から政界入りしたこともあり外交面ではスタンスが時折出る一方で、苦手だった安全保障外交について隙が出る発言を度々修正することがあった。 (昭和56年)5月7・8日の大統領との会談後の共同声明では、日本の公式文書では初めて『 同盟関係』という文言が記されたことから、新たな軍事的密約を懸念したマスコミ側から記者会見の場で「今度は同盟関係ということが初めて謳われたが何か軍事的に変わったことがあるか」と、質問がなされた。 鈴木は「と、の経済体制という価値観では日米は全く同じだ。 これを守っていこうという立場を含めて同盟関係といっている。 軍事的意味合いは持っていない。 日本は、のもとに、自衛のための防衛力しか持てない。 に徹する。 にはならないという点をはっきりさせているので、ということは全然、共同声明の中にも入っていない。 」と発言。 鈴木の帰国後、国会等で、『』はを意味しからへの逸脱ではないかと問う声がやから起こり、5月11日の外務委員会においては社会党のの「日米軍事同盟、安保条約という意味を含んだ同盟ということを認識せざるを得ない」という質問に対し、 「軍事的な何らかの関係のあるものを同盟というような言葉を使うのだということであれば、片務的とはいえ安保条約というのは軍事的に関係がありますから、同盟と使ってもいいと私は思うのでございまして」 「軍事というのを日本で考えますと憲法でも制約があるわけでございまして、日本は日本を守ることしかできないのだというのはもうはっきりしているわけでありますから、それ以上広げて軍事同盟なんということはできない、日本は軍事的には個別自衛権しかないのだということはもうはっきりしていることでございます。 さっきから土井先生と私がやりとりしております片務的な安保条約、それが軍事的な同盟のようなものじゃないかと言われれば、安保条約を結んだときからこれはあるわけでありますから、それは何も否定しませんが、広い意味ではこれはそういうことも入った軍事関係だということを先ほどから申し上げているわけでございまして」 等と発言。 や同盟の解釈を巡り、軍事的意味はないとする鈴木の発言との相違が問題視された。 また外務も「軍事的な関係、を含まない同盟はナンセンス」と鈴木を批判。 また鈴木も共同声明文がら外務省の事務側で一方的に作成され、自身の意向が全く反映されていないことに対し強い不満を示した。 内では米側の反応も受けて緊急の協議が行われ、13日、日本政府は統一見解を発表し、『同盟には軍事的側面はあるものの新たな軍事的意味を持つものではない』 として鈴木の発言を事実上修正した。 政府見解を受けた14日の外務委員会では伊東外相も、「日本とアメリカの間には日米安保条約がありますことは、これはもう厳然たる事実でございますので、そういうことを前提にしておりますことが中に入っているということは、これはもう間違いない、だれもが否定することではないわけでございます。 そういう関係を同盟関係と、広い関係を同盟関係という言葉で表明したわけでございまして、そういう言葉を使ったから、何か日米関係の中に新しい枠組みをつくって、そしてそれが従来の枠組みを変えて、新しい枠組みをつくって新しい軍事的意味を持たせる、そういうような意味でこの言葉を使ったのではなく、安保条約の五条関係は憲法からしても個別自衛権であることは間違いないのであり、これを集団自衛権とかそういうものに直していこうとか、そういう意図は毛頭ない」 と説明するも、翌15日のでは・・ら閣僚から外務省側の対応に批判の声が上がり、翌16日、責任を取る形で伊東外相・高島次官の両名とも辞表を提出し、事務次官は慰留を受けたものの外相は辞任する。 この問題では、鈴木は同盟の解釈について「新たな軍事的意味を持つものではない」「米国の対ソ軍事戦略に巻き込まれるものではない」「わが国が集団的自衛権の行使を前提とするような軍事的な役割りを分担するといったようなことを意味するようなものでは全くない」「安保条約が日米双方による集団的自衛権の行使を前提とする条約に該当しないことは明らかであり、日米双方とも、安保条約の性格をいかなる意味でも変える考えのないことは一致しているところである」 などと、軍事同盟を否定する考えを一貫して示した。 ライシャワー発言への対応 [ ] 1981年5月18日、朝刊に元が、(当時毎日新聞記者)に対して語った「の規定する持ち込みとは陸揚げを指し、を搭載した艦船の寄港は含まない」「日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が核兵器を積んだまま日本の基地に寄港していた」「これについては日米安保条約の規定する"事前協議"の対象とならないことを日本側も了解していた」との発言が報道され、「非核三原則」違反を大使まで務めた外交官が認めたとして日本国内で騒動になった。 「国防情報センター」のジーン・ロバート・ラロック所長(元海軍少将)による「核兵器搭載艦船は日本寄港の際にわざわざ兵器を降ろしたりしない」の「」と並び有名な「ライシャワー発言」であり、「」の一つである。 20日、外相は駐日大使と会談。 ラロック証言を否定した国務長官代理による米政府見解を確認しライシャワー発言を否定したが、同20日、鈴木はの昼食会で「日本政府は核の持ち込みについて一貫して航空機であろうと艦船であろうと事前協議の対象となる、という立場を堅持している」と言明したうえで、 「事前協議は現実的に対処する。 事前協議は予見できるものではなくイエスもノーもある」と協議次第では核持ち込みを許容するかの発言をし、問題となる。 後、官邸で宮澤官房長官らと協議し自身の発言を否定する。 日米同盟問題もあり国会では社会党から「鈴木・レーガン共同声明による日米同盟なるものが、実は、対ソ同時多発報復戦略に基づく核同盟にほかならない」などと、厳しく追及され対応に追われることとなった。 シーレーン防衛 [ ] 元のは日本の防衛すべき範囲としてとおよびとをそれぞれ結ぶ2本のライン( 中村ライン)を提示した。 この概念を元に訪問中の鈴木は「海上交通路につきましては約1000、1000マイル、こういうものを憲法の了承とも照らし合わせまして、我が国自衛の範囲内としてそれを守っていく、と」と発言。 翌(昭和57年)3月には来日したの「日本の防衛力は憲法の範囲内ですら不十分だ。 いろいろ難しいのは分かるが日本の空とシーレーンの防衛は実質的な改善を要求する。 」と発言があり、の軍事力増強とへの介入などで米ソ関係が緊張する中で日本の防衛力強化への圧力が高まり、やの本格配備を想定したが、1982年7月の国防会議で了承された。 鈴木のシーレーン防衛の発言はアメリカの国防報告(1985年度版)において、『日本の領域の防衛、その空域と1000マイルまで外のそのシーレーンが日本の憲法のもとに合法的で、実際、その国家政策であると彼が1981年5月に述べたとき、鈴木首相は日本の役割と任務のためにゴールを明確に述べた。 』と肯定的に記されることとなる。 一方で米側から日本に対し武器技術の供与を求められた際は「武器が売れるといいなと思うような産業界の人をつくりたくない」という思いから、要請を拒否した。 園田外相による共同声明否定発言 [ ] 1981年6月12日、で日米安保事務レベル協議が開催され、米側から日本に対し、の見直しと、1000海里シーレーンの防空・戦闘継続能力二ヶ月以上との要求がなされた。 6月19日、での拡大外相会議でヘイグ米国務長官と会談した外相は米側の過大な要求に対し、財政状況などから困難であるとの旨を伝えた。 翌20日、ホテルの自室に集まった記者に日米間の相違について問われた園田は、先の鈴木・レーガン共同声明を「声明には鈴木総理の意思が反映されていない。 声明は条約・協定・覚書とは異なる。 外交上の拘束力はない。 」などと発言し、新聞などで報じられ大きな問題となる。 園田は緊急の記者会見を開き釈明したものの、アメリカからの対日信用を落とす形となった。 日米同盟問題、非核三原則問題などと合わせ、鈴木・園田コンビが対米外交で失点を重ねたことはなど評論家から厳しく批判された。 第一次教科書問題 [ ] 1982年6月に起きたに直面した際には、とからの反発を受け、を定めた。 中曽根政権へ [ ] 首相就任以来、一部マスコミからは 角影内閣、 暗愚の宰相 と揶揄されていた。 伊東の後任で外相に就いたの日米同盟関係見直し姿勢もあって対米関係が著しく悪化したため、らの親米派によりの動きが起こっていたが、党内事情では総理総裁の地位を脅かすまでには至らず、(昭和57年)の総裁選で再選されれば長期政権も視野に入っていたが、1982年(昭和57年)10月に至って突然総裁選不出馬を表明。 10月12日の退陣会見では「自分が総裁の座を競いながら党内融和を説いても、どうも説得力がないのではないか。 この際、退陣を明らかにして人身を一新して、新総裁のもとに党風の刷新を図りたい。 真の挙党体制を作りたい」と述べた。 田中派の処遇を中心とする党内各派のバランスに苦慮していたことや米国政権に不信感を持たれ日米関係がこじれたことが背景にあるとされているが、不出馬の真相は明らかになっていない。 一方で、外遊のたびににを指名して後継候補であることを示し政争の芽を予め摘んでおくなど、引き際の調整力は巧みであった。 首相在任記録は864日間で、首相在任中に大型国政選挙を経験していない首相としては下では最長記録である。 退任後自由民主党。 晩年 [ ] 鈴木は内閣退陣後も当面宏池会の会長を務めたが、田中と中曽根を攻撃したが頓挫し影響力が低下した。 (昭和61年)、会長職をにする。 (平成2年)に政界をした。 (平成4年)2月、に絡み国会の衆議院予算委員会に招致された際に「カネはの保管者として預かった」などと発言し、物議をかもした。 (平成14年)、長男の衆議院議員・がでとして初入閣した。 91歳の鈴木はテレビカメラの前で自宅のにあたり、寝ころんでテレビの報道を見ながら「大臣になってうれしいよ」と語った。 (平成16年)、のためので死去した、93歳。 死後、・が贈られた。 1995年に福田赳夫が死去してから自身が死去するまで、首相経験者では最古参かつ最高齢であり、明治生まれの首相経験者としては最後の生存者だった。 評価 [ ] 後継の中曽根内閣では、日米軍事同盟路線を強調し日米関係修復に努める一方で、鈴木の党内融和と行政改革推進の方針は継承され、鈴木の「和の政治」は、鈴木退陣後の自民党内抗争にも大きな影響を与えた。 ののような怨念も絡んだ抗争が繰り広げられることは無くなった。 一方、以来の平凡な経歴を持つ首相となり、などのように「鈴木が首相になったことは誰でも首相になれるという前例になり政治を劣化させた」と評する向きもある。 は「大平正芳氏が逝去して、首相のポストが転がり込んできた鈴木善幸氏が、自民党のなかで「誰でも首相になれる」という印象を最初につけた人だった気がします。 鈴木さんは外交に疎く、日米同盟についての国会答弁でしどろもどろになってしまったのを覚えています。 」と評している。 略歴 [ ]• (44年):山田町に父・、母・ひさの長男として生まれる。 (10年):水産講習所(現・)卒業、大日本水産会、全国漁業組合連合会、県漁業組合連合会などに勤務。 (昭和22年):からに出馬、初当選。 (昭和23年):社会党を離党、結成に参加、秋に(のちの・)に入党。 (昭和35年):内閣ので初入閣。 (昭和39年):就任。 (昭和40年):就任。 (昭和43年):就任。 (昭和47年):自民党総務会長就任。 (昭和51年):就任。 への名称変更を閣議で提案。 当時から新人代議士で創業者一族のを可愛がった。 (昭和54年):自民党総務会長就任。 (昭和55年):自民党総裁・内閣総理大臣就任。 (昭和57年):内閣総理大臣辞任。 (2年):政界引退(通算当選16回)• (平成12年):宏池会分裂()、とともに堀内・・愛息の俊一属すを支持。 (平成16年):午後9時15分死去、93歳没 栄典 [ ]• 2004年(平成16年)7月19日: 著書 [ ]• 『伊谷以知二郎伝』 大日本水産会、1939年 なおこの著作は作家の、館長のらが高く評価している。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 善幸の母・ヒサの実家は、の出身で尾張屋半蔵(尾半:びはん)と名乗り現在のを拠点に味噌や醤油の商売をしていた間瀬家の分家にあたる。 明治になりがを設立すると、一族の間瀬半兵衛がの代理店業務も担当している。 当初佐藤からは留任するよう慰留されたものの、池田に殉じる思いからこれを固辞したという。 『等しからざるを憂える。 元首相鈴木善幸回願録』p160-162 岩手日報社 2004年• 当時、鉄道建設審議会長であった鈴木はの流れを受けてを議員立法で制定したが、の財務状況の悪化により、東北新幹線は採算性を重視する・・国鉄側が仙台説を強く打ち出してきた。 新全総や当時の鉄建審の法案要綱では青森からを抜け札幌まで延伸させる計画(後の)であったため鈴木はこれに難色を示す。 「しかし大蔵、運輸、国鉄がそう言うんであれば二回に分けてやらざるを得ないが、仙台までといえば、もうかるところしかやらんというようなことになる。 国鉄の性格として、そういう民間鉄道と同じように、採算のとれるところしかやらんというのであれば、国鉄の使命というものはないではないかと。 だからせめてまでは絶対に譲るわけにはいかない、そうでなければ鉄建審に諮問案としてかけることはまかりならん」と強く反発。 結果、『』において東京都-盛岡市として決定された。 『元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る 戦後40年の検証』p166-168 、1991年• この時の中国はの勃発と、の不延長というの悪化という状況があった。 総理となってからの大平は鈴木の進言を受け入れなくなるなど、晩年の大平と鈴木の関係はあまり良好ではなかった。 歴代の自民党総裁で他党に在籍した経験がある人物は多いが、鈴木以外は全て自民党の前身政党または自民党に吸収された政党であり、自民党と系譜上全くつながりのない政党に在籍したことがあるのは鈴木だけである。 鈴木は後に「真意はこういうことだ。 それはというものがあるわけですから、日本が外国からの不測の侵略をうけるような場合には、アメリカがこれを支援協力をして防衛をするということなんだけれども、日本のは専守防衛に徹する、と。 言葉を換えるとこれは日本のということであって、アメリカとの間に日米安保条約を結んでおっても、アメリカが他の国と戦争したからといって日本が自衛隊を派遣したりしてアメリカに協力するとか、守ってやるとか、そういうことはやらない。 あくまで日本の防衛は個別自衛権という範囲であって、に逸脱するということは憲法の制約もあるし、日米安保条約にもはっきりうたってあるんです。 その点は全然変わっていないんですよ。 なにか日米同盟関係ということが新たに出ると、それまでの個別自衛権から今度はのような集団的自衛権に変わったんじゃないかということが心配されますから、私はその点については従来と全然変わっていないということをいった。 」と弁明している。 『元総理鈴木善幸 激動の日本政治を語る』p253-254• これは、日本が戦時中のドイツとの関係で使って以来のことである。 今回の騒動の最大の敗者(big loser)は鈴木総理自身だ」と記している。 もっとも、だったは外務省からの説明では、「同盟関係とは政治的・経済的・社会的・文化的・その他総合的関係を云うということであって、軍事的関係は入っておりませんので。 『軍事的意味合いはありません』という説明は受けてましたね」と語っている。 畠山は『鈴木善幸回願録』でも当時の外務省を批判しており、鈴木の発言は鈴木や畠山、宮澤らに対する「同盟に軍事的意味はない」という外務官僚のレクチャー通りに答弁したものだとし、鈴木は「ナンセンスなのはか、ワシントンで説明した彼の部下のどちらかだ」と憤っていたという。 1981年8月号ではにより「暗愚の帝王」と書かれていた。 「暗愚の宰相」とはその後が名付けたものとされる。 鈴木自身はをバックに持つなどの党内右派の動きに苦慮していたという。 「しかし、福田は岸さんの流れをくんでいる。 どちらかというと福田も右寄りだし、反田中、反大平であり、反鈴木。 もしも私が総裁に再選となるとまたぞろ腹の虫が動き出すわけだ。 それと一部の右寄りの国会議員たちが私の再選阻止ということで騒いだのではないか。 」「これ以上居座っていても、むしろ後をやりたい連中がムズムズしてまた党内が乱れるようなことになりかねないという心配があったからだ。 」と語っている。 『鈴木善幸回願録』p133,166• 例えば八幡「地方維新VS土着権力」、2012年、P157。 鈴木以前の自民党総裁は卒の高級官僚出身者が多く、またそれ以外の者も含めて「首相を狙う大物」と自他共に認めてきて要職を歴任した者ばかりであった(鈴木を除く昭和時代の自民党総裁は全て幹事長・・のどれかを経験している)。 学歴も閣僚歴も平凡で総裁候補として全く名前が挙がっていなかった鈴木の首相就任が多くの政治家に「鈴木がなれるのなら俺も」と思わせ政治の劣化を招いた、という指摘である。 出典 [ ]• 読売新聞. 2004年7月20日. の2004年7月21日時点におけるアーカイブ。 2020年1月25日閲覧。 サンデー毎日、1980年7月27日号181頁• 『鈴木善幸回願録』p153-154• 『鈴木善幸回願録』p155• 著『日本政治史4』• 第93国会衆議院会議録第4号• 第94国会衆議院外務委員会議録13号• 第94国会参議院外務委員会議録8号• 第94国会参議院会議録第18号• FY 1985: Annual Report to the Congress p218• 日経ビジネス• 綱淵謙錠『史談 往く人来る人』 毎日新聞社のち文春文庫 所収の「ある伝記執筆者」 参考文献 [ ]• 早川隆 『日本の上流社会と閨閥( 鈴木・小川・宮沢家 門閥ゼロからのスタート)』 1983年 153-157頁• 『等しからざるを憂える。 元首相 鈴木善幸回顧録』 聞き手東根千万億、、2004年9月 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• 議会 先代: 1958年 - 1959年 次代: 公職 先代: 第70代:1980年 - 1982年 次代: 先代: 第48代:1976年 - 1977年 次代: 先代: 第43代:1965年 - 1966年 次代: 先代: 第26代:1964年 次代: 先代: 第15代:1960年 次代: 党職 先代: 第4代:1980年 - 1986年 次代: 先代: 第10代:1980年 - 1982年 次代: 先代: 第23代 : 1979年 - 1980年 第17代:1972年 - 1974年 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