鎌倉幕府 場所。 鎌倉幕府の場所と史跡を巡る『大蔵幕府⇒宇都津宮辻子⇒若宮大路幕府』編

【ウワサの真相】鎌倉は呪われた土地!?古都ならではの心霊スポット!

鎌倉幕府 場所

鎌倉幕府の年表をわかりやすく解説! まずは 鎌倉幕府の年表を、わかりやすい形でご紹介します。 ・1183年 源頼朝が東国の支配権を確立する。 父・義朝の本拠地だった鎌倉に入る。 ・1185年 壇ノ浦の戦いによって平氏が壇ノ浦で滅亡する。 頼朝が全国に、守護・地頭を置く権利を獲得する。 (逃亡していた弟・義経を捕えることが目的だった) ・1192年 頼朝が征夷大将軍となる。 ・1199年 頼朝がなくなり、長男の頼家が2代将軍となる。 頼家の慣例を無視した独断的政治に、御家人の不満が高まる。 頼家の独裁を抑えるため、北条氏は有力御家人と計って13人の合議制をしく。 ・1203年 頼家は将軍を廃され、伊豆の修禅寺に幽閉される。 頼家の弟である実朝が3代将軍に就く。 北条時政が執権に就き、執権政治始まる。 ・1204年 幽閉されていた頼家が、修禅寺で北条時政によって暗殺される。 ・1219年 実朝が頼家の子供である甥の公暁に殺害される。 源氏の将軍はここで途絶える。 ・1221年 承久の乱が発生。 京で後鳥羽上皇が討幕のために挙兵するが敗北する。 幕府は六波羅探題を設置し、朝廷や西国の御家人を監視する。 ・1226年 摂関家の藤原頼経が4代将軍に就任する。 ・1232年 北条泰時が、日本最初の武家法である御成敗式目を制定する。 ・1246年 北条時頼が5代執権になる。 ・1247年 宝治合戦が起こる。 有力御家人の三浦泰村が北条氏に反乱を起こすが敗北する。 合議制による執権政治から、得宗家(北条氏の嫡流)による専制体制へ移る。 ・1268年 時頼の子、北条時宗が8代執権に就く。 元からの朝貢要求を断る。 元と高麗の連合軍で対馬・壱岐を攻めてくる。 元軍は博多湾に上陸するが、内部対立などが原因で引き上げる。 ・1281年 弘安の役 2度目の元寇 が勃発する。 塁や効果や武士の奮闘、暴風雨の影響により元軍は撤退する。 ・1297年 日本の最初の徳政令である「永仁の徳政令」が出される。 当時、御家人の借金が急増しており、これを解消するのが目的だった。 ・1318年 京で後醍醐天皇が即位する。 ・1324年 正中の変が勃発。 後醍醐天皇が討幕計画を立てるが失敗する。 ・1331年 元弘の変が勃発。 後醍醐天皇が2度目の討幕計画を立てるが失敗。 楠木正成や護良親王などが挙兵する。 ・1333年 有力御家人の1人である足利尊氏が、京の六波羅探題を攻め落とす。 同じく御家人の1人である新田義貞が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府が滅亡する。 得宗家最後の当主であった北条高時は、一族や家臣と共に自害する。 スポンサードリンク 鎌倉幕府の年表を、主な出来事に絞ってご紹介しました。 源頼朝が立ち上げた鎌倉幕府ですが、その二人の子供は殺されてしまったため、実質は北条氏が鎌倉幕府の実権を握っていた事がわかりますね。 しかし最終的には御家人の不満が高まり、同時期に発生したに後醍醐天皇の挙兵によって鎌倉幕府は滅亡してしまうのです。 鎌倉幕府の役職を年表を使ってわかりやすく解説! 続いて、 鎌倉幕府の役職を見ていきましょう。 まずは 役職が設置された順番を年表を使ってご紹介します。 ・1180年:侍所が設置される。 ・1183年:守護・地頭が設置される。 (頼朝の支配地のみ) ・1184年:公文所と問注所が設置される。 ・1185年 守護・地頭の設置を全国に拡大する。 京都守護と鎮西奉行が設置される。 ・1189年:奥州総奉行が設置される。 ・1191年:公文所の名称を政所に改称する。 ・1217年:この時期、蝦夷代官が設置されたとされる。 ・1221年:承久の乱の後に、六波羅探題を設置される。 (京都守護は消滅) ・1225年:連署と評定衆が設置される。 ・1249年:引付衆が設置される。 ・1274年:文永の役(1回目の元寇)が勃発する。 ・1276年:長門探題が設置される。 ・1281年:弘安の役 2回目の元寇 が勃発する。 ・1293年:鎮西奉行に代わり、鎮西探題を設置する。 また、それぞれの役職の意味は以下の通りです。 将軍…鎌倉幕府の頂点。 しかし、頼朝以降は政治的な権力が薄れ、源氏が3代で途絶えたあとは京の摂関家や皇族から将軍を選んだ。 鎌倉幕府の将軍はその後9代まで続いた。 幕府の中枢を担う役職は以下の3つです。 執権…北条時政が執権となって以来、幕府の実権を握る。 代々、北条氏がこの職に就いた。 連署…執権の補佐役。 評定衆…執権と有力御家人で構成。 この3つの役職の下にさまざまな役職が置かれています。 大きく中央(鎌倉)と地方に分かれます。 鎌倉で仕事にあたる役職は次の4つです。 奥州総奉行…奥州の御家人を統率する 蝦夷代官…蝦夷地方を統括する。 元寇対策。 元寇対策。 スポンサードリンク 鎌倉幕府があった場所はどこなのか?跡地はどうなってる? ところで、 鎌倉幕府があった場所はどこなのでしょうか? 実は鎌倉幕府があった場所である「御所」は、二回移動してるのです。 最初の場所は 大蔵御所とよばれ、源頼朝から3代将軍の源実朝までがここで政治を行いました。 源頼朝は1180年に鎌倉の地に入り、鶴岡八幡宮の北東一帯に邸宅を築きます。 鎌倉を選んだ理由としては、この土地の特徴である三方を山に囲まれ、南を海に臨み、攻め込まれにくい地形、そして父の義朝の根拠地だったことが挙げられます。 頼朝は鶴岡八幡宮および宮と南側の海を結ぶ若宮大路を軸として、まちづくりを行います。 この周辺には有力御家人の邸宅や、おもな役所がありました。 大蔵御所があった跡地は現在、清泉女学院清泉小学校や住宅街になっています。 小学校の正門の手前には、大蔵御所の場所を示す石碑が建てられています。 さて、源氏の血筋が途絶えたあと、北条氏が執権となって幕府の実権を握ります。 1225年、3代執権・北条泰時は、大蔵にあった幕府の役所などを鶴岡八幡宮の南側に移します。 若宮大路の東側を南北に走る宇都宮辻子という道に面するかたちで、「 宇都宮辻子御所」と呼ばれる御所が造営されました。 鎌倉幕府はこの年に、京から藤原頼経を4代将軍に迎えましたが、北条政子が亡くなったため、心機一転をはかって移転したといわれています。 この地に移した理由は、北条氏の邸宅があったためと考えられます。 また、この宇都宮辻子御所の跡地には、宇都宮稲荷神社があります。 神社のあたりが御所の南門があった場所と推定されています。 この神社の前にも御所があったことを示す碑が建っています。 宇都宮辻子御所に移ってから11年後の1236年、北条泰時はさらに御所を宇都宮辻子御所の北側へ移します。 移転の理由ははっきりとせず、4代将軍・藤原頼経の病気説などがあります。 この御所は 若宮大路御所とよばれていますが、移転というよりは、宇都宮辻子御所を北へ拡張し、面する方向を宇都宮辻子から若宮大路に変えたという説もあります。 新田義貞が鎌倉を攻め、鎌倉幕府が倒れる1333年までの約100年間、ここに幕府が置かれていました。 若宮大路の東側、鶴岡八幡宮のすぐ南に位置する住宅街が若宮大路御所のあった場所です。 跡地にはやはり石碑が建っているだけです。 スポンサードリンク この記事のまとめ 今回は 鎌倉幕府の成立から滅亡、そして役職を年表を使ってご紹介すると共に、幕府があった場所の変遷やその跡地についてご紹介しました。 政治と連動して幕府の場所が移動している様子が分かってもらえたと思います。 日本で最初の武士による政治が行われた鎌倉幕府の形は、室町幕府、江戸幕府と引き継がていきました。 この 3つの幕府の違いについては以下の記事で解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さい。

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鎌倉幕府があった鎌倉は今の何県でしょう?

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鎌倉幕府の特徴とは?「御恩と奉公」って? まずは 鎌倉幕府について、その特徴と共にご紹介します。 鎌倉幕府は1185または1192年に、源頼朝を創設者として成立した武家政権です。 設立年は「 イイクニ 1192 作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせで覚えた方も多いかと思いますが、いろいろな説があり、その中で現在では1185年が実質的な設立で、1192年は源頼朝が征夷大将軍に就任した年という考え方が採用されています。 これは幕府の頂点にたつ鎌倉殿(将軍)とその家来である御家人との間に取り決めたギブアンドテイクのような約束で、この両者の関係は「 御恩と奉公」と呼ばれています。 御恩とは、鎌倉殿が御家人に与えるもので、先祖代々の領地を支配することを保障したり、新たな領地を与えたり、地頭に任命したり、朝廷の官職等に推薦したりなど。 奉公とは、御家人が鎌倉殿に対してやることで、合戦で鎌倉殿のために戦ったり、京都大番役、鎌倉番役など、鎌倉幕府の重要機関で一定期間働いたり、朝廷や幕府の建物などの建築や修理をするなど。 また鎌倉幕府の仕組みとしては、将軍の下に 執権をおいて、執権が将軍を助け、幕府の全体の政治を行い、執権の下に鎌倉、京都、地方を治める各役所や役職が置かれました。 鎌倉幕府が滅亡に至った背景としては、御恩と奉公のバランスが崩れたことがあげられます。 鎌倉時代中期におこった中国大陸の大国・元の襲来によって、御家人たちは攻めて来た元軍を追い払うために出陣します。 しかし戦争にかかる費用は御家人たちの負担で、死傷者なども出るのに、外敵を追い払っただけなので、恩賞として新たな領地などを貰えるワケでもなく、御家人たちは困窮して、鎌倉殿への不満をつのらせました。 また、幕府の実権を握り続けた執権・北条家はこの頃になると遊びや贅沢に夢中で政務を怠けていた人物が当主になっており、これに対して反北条の御家人たちが、幕府を倒そうと画策していた後醍醐天皇を支持して北条氏と戦い、鎌倉幕府は1333年に滅亡しました。 スポンサードリンク 室町幕府の特徴とは?滅亡したのは1573年ではなかった!? 続いて 室町幕府について、その特徴などと共にご紹介します。 室町幕府は 1336年に足利尊氏によって京都に設立された武家政権です。 第3代将軍・足利義満が京都の室町に「花の御所」とよばれる豪華な邸宅を構えて政治を行った事から、室町幕府と呼ばれるようになりました。 というのも実権を握った一族が鎌倉幕府の北条家や、江戸幕府の徳川家のように初代からの流れを受け継がず、室町幕府で実権を握った今川・畠山・斯波・細川・一色といった大大名は足利尊氏を始祖とする流れではありませんでした。 そのため血筋による結びつきが弱く、中央に強大な権力を集めることが難しかったのです。 室町幕府は将軍の力が弱く、有力な守護大名の連合政権のような形でした。 また、 幕府の仕組みは鎌倉幕府にならったもので、鎌倉幕府の執権にあたる役職が室町幕府の管領になります。 この管領の下に政所・問注所・侍所が置かれ、地方機関として鎌倉府・九州探題などがおかれ、地方には守護・地頭をおきました。 室町幕府が滅亡に至った背景は、もともと将軍の権力が弱い政権で、有力大名の力が増してきて戦国時代となり、幕府の組織を維持することが難しくなって消滅したと言えます。 1553年8月には、13代将軍・足利義輝が三好長慶に敗れて近江国に逃れたのち、1558年11月に和議を結んで京都に戻るまでの期間、三好長慶によって将軍を擁立しない独自の政権が打ち立てられた時期もあり幕府の衰亡が進んでいきます。 滅亡年は1573年7月に織田信長が15代将軍・足利義昭を京都から追放した時、とするのが一般的ですが、義昭はその後も将軍の位を奪われたわけではなく、信長の勢力が及ばない地方においては、将軍としての権威を保っていました。 その後、1588年に関白・豊臣秀吉に従って忠誠を誓うまで征夷大将軍であったと『公卿補任』に記録があることから、1588年を室町幕府の滅亡年と考える見方もあります。 スポンサードリンク 江戸幕府の特徴とは?幕藩体制や身分制度、大名統制について! 最後に 江戸幕府の特徴や仕組み、滅亡に至った背景などを見ていきましょう。 江戸幕府が直接支配する領地は約400万石で、幕府直参の旗本領とあわせると約700万石となり全国の石高の約4分の1を占め、また大阪・京都・長崎などの都市や佐渡金山・石見銀山などを直轄地にして、貨幣の鋳造権も独占し、圧倒的な経済力をもち政権を維持しました。 そして 江戸幕府の特徴としては、幕藩体制、身分制度、大名統制などが挙げられます。 幕藩体制とは、将軍と全国各地の大名が主従関係を結び、全国を幕府の領地と各大名の領地に分けて、将軍を頂点とした幕府と各藩による支配体制のことです。 身分制度とは、人々を職業により武士、町人、百姓に区別し、武士は社会を支配する身分で、苗字を名乗り、刀を持つことが許されました。 町人とは職人や商人、百姓とは農業や漁業、林業に従事する人々のことで、それぞれの身分によって住む場所も決められました。 また総人口の約8割を占める百姓は年貢の取り立てがあり、この年貢が財政の基盤になっていました。 大名統制とは、大名の反逆を防ぐため、全国の大名を親藩・譜代大名・外様大名に分けて、各地に配置し、武家諸法度できびしく取り締まると共に、参勤交代を義務づけて余分な財産を蓄えないようにしました。 また、朝廷や寺社を取り締まる法律ももうけて、権力の増大を防ぎました。 江戸幕府の仕組みは将軍の下に老中・若年寄・大目付や寺社奉行・町奉行・勘定奉行などをおき、譜代大名や旗本など徳川家により近い、信頼のおける家臣がこれらの要職につきました。 また権力が特定の人物に集まらないように、月番制や合議制を採用し、老中の上に大老をおくこともありました。 そして、 江戸幕府が滅亡に至った背景は、代々続いた徳川将軍家の人材の不足や、鎖国政策により世界の産業革命の波に乗り遅れた点が挙げられます。 強大な国力を誇る欧米列強からの開国要求に従わざるを得なくなり、幕府が行なった安易な開国政策にたいして、日本各地で賛否が分かれました。 そして時代に先んじた人材を育成していた薩摩・長州の志士たちが先頭をきって倒幕の動きが強まり、幕府の衰退が目立つようになり、1867年に15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上したことにより江戸幕府滅亡となりました。 スポンサードリンク この記事のまとめ 鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の特徴と、それぞれ違いをご紹介しました。 最後に、それぞれの違いをもう一度、簡単に振り返ってみましょう。 ・鎌倉幕府 源頼朝が創設者、成立年は1185年または1192年 御家人制度や「御恩と奉公」という関係が特徴 将軍のもとに置かれた「執権」が政治を行った 御恩と奉公のバランスが崩れ、1333年に滅亡した ・室町幕府 足利尊氏が1336年に京都で創設した 有力な守護大名との連合政権みたいなものだったのが特徴 管領のもとに様々な役職が置かれていた 有力大名の台頭によって組織維持が困難になり1573年に滅亡 ・江戸幕府 徳川家康が1603年に設立した日本史の中で最も長命な政権 幕藩体制や身分制度、大名統制を主な特徴とする 約400万石を支配する将軍のもとに老中などの役職が置かれた 人材不足や欧米列強の開国欲求、倒幕運動によって1867年に終了 これで、3つの幕府の違いはもうバッチリですね! テスト勉強などで迷ったら、このページを何回も読み返してみて下さい! 関連記事(一部広告含む).

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鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の特徴と違いを解説!

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それが、源頼朝によって鎌倉に幕府が置かれることになったのです。 源頼朝が鎌倉に幕府を開いたその理由には 関東の武士団の勢力が関係してきます。 そもそも武士の成り立ちは、関東の農民たちが自分たちの土地や財産を守るために武装したということが始まりとされています。 当時、関東では朝廷に任命された国司や目代が土地を奪ったり、過剰に税を徴収するなどして勢力を振るっていました。 しかし、地域の住民や関東の武士団たちは苦しめられていました。 当時の武士団は歴史上は豪族であり、その地域の実力者なのですが、国司に歯向かうような立場にはなかったのです。 そこで、特に武士の中でも実力者である平家や源家と親戚関係を持つようになります。 特に源頼朝は富士川の戦いによって平家に勝利し勢い付いていたので、京都に上洛して朝廷を治めようという動きを見せていました。 しかし、関東の武士団の想いは朝廷のある京都に入ることではありませんでした。 武士団の願いは 「朝廷に干渉されたくない」という想いだったのです。 源頼朝はこの想いを汲み、実行に移すことで武士団の信頼を益々得ることになったのです。 「鎌倉」が源頼朝に選ばれた理由 では、江戸幕府滅亡まで約 680年間も続いた武家政権の幕を開けた源頼朝が、「鎌倉」という地を幕府を開く場所として選んだ理由を具体的に見ていきましょう。 このような地形は 守りやすく攻めにくい地形であると言えます。 源頼朝が鎌倉を根拠地とした当時は平氏との戦いが多い時期でしたので、平氏に攻め込まれた場合を想定して自身の本拠地の防御を整える必要性がありました。 その点、鎌倉の地形は自然の要塞となっていたので源頼朝にとってとても都合が良かったのです。 鎌倉の地は歴史の教科書では「天然の要害地」と表現されることがあります。 また、この土地は、元々源頼朝の先祖の土地であったことから縁のある土地でした。 地形から考えると源頼朝にとって好都合であった点は具体的には以下の通りになります。 当時、山を最小限だけ切り取って鎌倉と各地を結ぶ道を作ったとされていますが、江戸時代には東海道は天下の街道として賑わいをみせました。 このことは、現在は国道1号線が東海道に沿って開通している様子からも想像できるでしょう。 その想いを汲んで、源頼朝は朝廷のある都「京都」ではなく、離れた土地、関東で幕府を開きました。 武士の想いとは、具体的には以下のような内容だと考えられます。 鎌倉幕府と切り通し 最後に、鎌倉幕府が作った 「切り通し」について説明します。 鎌倉幕府は、鎌倉を取り巻く山々に切り通しを作ることで鎌倉につながる街道と鎌倉をつなぎました。 本来、切り通しは道幅が広いものもありますが鎌倉の切り通しは、一様に道幅が狭く人が一人分くらいしかと通れないように作られています。 切り通しについて理解を深めていきましょう。 本来、切り通しは道幅が広いものもありますが、鎌倉の切り通しは一様に道幅が狭く人が一人分くらいしかと通れないように作られています。

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