江川 ダム 貯水 率。 島根県:ダムの諸量データ(貯水位、貯水率等)(トップ / 環境・県土づくり / 河川・治水・治山 / ダム / ダムの諸量データ(貯水位、貯水率等))

宮城県各管理ダム貯水状況について

江川 ダム 貯水 率

貯水量情報• 0 98. 8 -3. 3 8,500 7,200 7,264. 7 85. 5 -27. 9 3,101 1,469 1,525. 7 49. 2 -109. 5 2,000 1,060 1,124. 1 56. 2 -18. 7 1,322 300 615. 7 46. 6 -54. 9 9,000 2,500 3,270. 1 36. 3 -207. 7 12,000 8,500 8,984. 6 74. 9 -87. 1 5,050 3,050 3,540. 7 70. 1 -103. 4 2,640 1,220 1,674. 2 63. 4 -91. 6 以上合計 55,163 36,849 39,413. 8 71. 4 -704. 1 前年同日量 35,338. 6 76. 0 62. 8 61. 2 -13. 8 1,020 760 1,010. 6 99. 1 -12. 8 5,800 2,500 2,961. 4 51. 1 -53. 6 2,000 0~1,600 1,541. 1 67. 877. 1 -35. 7 以上合計 14,420 6,560~8,160 8,938. 9 62. 0 -115. 9 前年同日量 8,769. 5 60. 6 88. 4 -23. 9 3,435 3,258 2,577. 5 79. 1 -9. 5 以上合計 21,975 21,798 18,964. 1 87. 0 -33. 4 前年同日量 17,946. 9 82. 5 86. なお、( )内は洪水期(7~9月)の数値です。 なお、( )内は出水期(6~10月)の数値です。

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江川ダム 筑後川河川事務所 国土交通省 九州地方整備局

江川 ダム 貯水 率

概要 [ ] 両筑平野用水総合事業所が管理するダムで、やをはじめとする両筑平野の水道用水、農業用水の水源として建設された高さ79. ではあるが()目的を持たず、主務官庁には関わっていない。 やなどと共に福岡県や・・東部各地方の水がめとして重要な役割を担っている。 ダムによって形成されたは 上秋月湖(かみあきづきこ)と命名され、(平成17年)に当時のからの推薦によりが選定する に選ばれている。 江川ダムと、さらにを合わせて、において福岡導水を介した福岡地方の9市9町村 への各種用水供給、筑後導水を介した筑後地方の6市8町村 への上水道・工業用水・農業用水の供給、更に佐賀東部導水を介して佐賀県東部2市17町村 への上水道・工業用水・農業用水の水源の一つとしての役割を果たしている。 福岡導水・筑後導水の供給割当量(次表)上、重要なダムである。 1 0. 7 14. 4 2. 8 5. 2 (筑後導水) 15. 5 1. 4 6. 7 1. 3 6. また渇水期にはによりにも間接的に供給される。 さらに福岡市水道局と朝倉市水道課は本ダム直下流からも直接取水しており( 甘水(あもうず)取水場)、2018年現在取水量枠ベースでは福岡市が約9. 経緯 [ ] 北部九州の水資源開発 [ ] を始めとするの地域は戦後急激に人口が増加、工業地域の拡充等で産業も発展しの需要も高まった。 また、両筑平野(、)周辺は穀倉地帯でもあり技術革新に伴う農産物の収穫増加に対応するための整備も急務となった。 こうした事から(現九州地方整備局)・(現九州農政局)・(現九州経済産業局)・九州山口経済連合会と・・・は、北部九州にわたる筑後川水系の治水および水資源開発を図るために「北部九州水資源開発協議会」を設立し、筑後川水系の「水資源開発促進法」指定を働きかけた。 この結果(昭和39年)10月筑後川水系は水資源開発水系に指定され、水資源開発公団(現独立行政法人)による「筑後川水系水資源開発基本計画」の策定となった。 江川ダムは利水施設の第1号として(昭和43年)に計画された。 江川ダムの整備 [ ] 江川ダムは(昭和47年)に完成した。 型式は、高さは79. 2mで治水機能を持たない利水専用である。 目的は、などへの供給、両筑平野用水の水源として甘木市等2市3町の農業用水供給である。 この後公団事業の・・山口調整池や農林水産省九州農政局のが完成することで両筑地域等への水供給が図られることになる。 だが(昭和53年)ので江川ダムが枯渇。 これを受けて更なる水源整備が計画され、ダム上流の上秋月町栗河内地点の小石原川に現在 が計画されている。 ダムの型式は中央土質遮水壁型、高さは129. 0mと筑後川水系のダムの中では最大堤高のダムとなる。 上水道・工業用水の供給に加え・機能を持つ多目的ダムとして現在実施計画調査が進められている。 尚、(平成18年)5月に小石原川ダムはの対象ダムに指定され、補償対策における厚い対処や水源地域のインフラ・観光拠点整備等といった水没地域活性化対策を講じることが必要要件となった。 上秋月湖 [ ].

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貯水量情報

江川 ダム 貯水 率

江川ダムは、両筑平野用水事業の基幹水源施設。 両筑平野に農業用水を供給するほか、福岡地域の水道用水などを供給。 筑後川初の本格的利水ダム。 寺内ダムが出来てからは、水供給について寺内ダムと総合利用されている。 2010年には、6月6日に38回目の水源祭がダム堤体上で行われ、地元関係者などが参加して、堤体から厳かに清酒注ぎの式が行われた。 江川ダムの所在地は旧上秋月村だったこと、「秋月」は、城下町の面影を残し歴史と文化のある町で、名称そのものが情緒を感じさせることから、上秋月湖が選ばれた。 2m/297. 9m/261千m 3 流域面積/湛水面積 30km 2 ( 全て直接流域 ) /86ha 総貯水容量/有効貯水容量 25326千m 3/24054千m 3 ダム事業者 水資源開発公団二工 本体施工者 西松建設・大林組 着手/竣工 1967/1972 ダム湖名 上秋月湖 (かみあきづきこ) ランダム情報 【ダム湖百選】(財)ダム水源池環境整備センターのダム湖百選に選定される(H17. 16公表) 【ダムカード配布情報】2019. 1現在 (国交省資料を基本とし作成、情報が古いなどの場合がありますので、事前に現地管理所などに問い合わせるのが確実です) Ver1. 休日は、巡視等で不在の場合があります。 ダムカード画像コレクション 江川ダム Ver. 0 (2007. 07) [協力:け〜] 江川ダム Ver. 1 (2014. この句は甘木市 現朝倉市 の江川ダムの項に載っている。 江川ダム 上秋月湖 は、筑後川総合開発事業の一環である両筑平野用水事業の基幹施設として、水資源開発公団(現水資源機構)によって、昭和47年に完成した。 その目的は農業用水、水道用水、工業用水を供給することでである。 江川ダムの諸元をみてみると、堤高79. 2m、堤頂長297. 5m、堤体積26. 1万m3、総貯水容量2530万m3、型式は重力式コンクリートダムで、施工者は西松建設、大林組である。 江川ダムは完成後間近、昭和53年に脚光をあびた。 それは福岡都市圏における、昭和53年5月〜54年3月の287日間に及ぶ給水制限がなされた時のことである。 福岡大渇水であった。 連日、干上がった江川ダムの姿がテレビ等に映し出された。 平成20年6月2日現在、ダムの貯水率は83. 7%で、この掲句のように湖水面は真青に染まっている。 福岡都市圏200万人の生命の水である。 江川ダムでは75世帯が水没した。 水没された方々の恩を決して忘れることはできない。 毎年6月、その恩に感謝するために上秋月湖では水源祭が行われている。 それは江川水源祭という。 昭和48年から開催され、今年は36回目。 6月7日に、ダム建設に伴う水没者など地元関係者と、朝倉市、両筑土地改良区、福岡市、福岡地区水道企業団、水資源機構などの関係者が出席して、江川ダム堤体上で清酒注ぎの式などを行うとのことである。 (2008. 昭和40年以降、福岡都市圏は急速に都市化が進み、現在では 130万人の福岡市をはじめ、春日市、大野城市、太宰府市、筑紫野市、前原市などを含めると人口は 200万人に達する。 福岡都市圏の弱点は、都市活動に欠かせない水が中小河川の多々良川、御笠川、那珂川、室見川、端梅寺川などに依存しており、その水源に乏しいことである。 このため、水源を九州第一の河川筑後川水系に求め、甘木市に、昭和47年8月両筑平野用水事業の基幹施設である江川ダム、昭和53年1月寺内ダムの2つのダムが建設された。 甘木市は福岡県のほぼ中央に位置し、人口43,000人、面積167. 19・の田園都市である。 市を縦断するように北から南へ小石原川と佐田川が流れ、やがて筑後川に合流し、有明海へ注ぐ。 江川ダムは小石原川、寺内ダムは佐田川の各々の上流に位置する。 このダム建設にあたっては、建設される側と建設する側との間に必ずや葛藤や確執が生じてくる。 ダムによって生活の場を喪失する水没者、ダムを造らねばならない起業者とのコンク(紛争)がおこる。 このコンクリフトが増大すればする程ダム造りは困難性を伴う。 そのなかを取り持つ者が、水没地における市長であり、その役割が常に注視され、その力量が大きくダム建設の進捗を左右することとなる。 5期20年勤めた甘木市長、塚本倉人著 『土と水と炎 塚本倉人自伝』(西日本新聞社・平成元年)の書がある。 甘木市における江川ダムと寺内ダムの建設に情熱を注いだ、市長であり、この書から「の精神」を読みとることができる。 「私は市議一期目の経済常任委員長時代にダムに関わり、当時、ダム建設の有力候補地だった寺内地区の人たちと話し合いをしたが、地盤の問題などが原因となって暗礁に乗り上げ、代わって江川ダム構想が浮上、昭和37年ごろから本格化した。 」 「昭和39年11月私は市長に就任すると改めて江川ダムの建設に心血を注ぎ早期着工を求めて、九州農政局にお百度参りを続けた。 このときまでは私は江川ダムの建設の目的はひとえに農業用水の確保にあることを信じて疑わなかった」 両筑平野用水事業の基幹施設である江川ダムは、根本的に計画が見直され、農業用水のみでなく水道用水、工業用水も確保され、昭和42年4月農林省から水資源開発公団に承継され、筑後川水系における初の多目的ダムの建設となった。 さらに、塚本市長は、 「江川ダム建設の主務庁は農林省だったが、建設費の予算化については、前提条件として「両筑平野灌漑施設期成会」が水没者の了解を取り付けることになっていた。 私は期成会の会長として、また水源地の市長として江川地区の水没者87世帯を一軒一軒説得して回った」 と、ある。 「期成会は昨日までは水資源開発公団とケンカ腰で交渉してきたが、水没者の交渉は逆に期成会が公団側に立たざるを得なかった」 「公共の福祉のためです。 どうかダムの建設に協力して下さい」 「市長さん、なんで無理にダムをつると?私たちはダムがなくても楽しく暮らしています」と泣いて訴えるおばあさんに答へる術がなかった。 のっけから頭ごなしに「期成会」は敵だと思い込む人もいて補償交渉のために用意した会場に入れてもらえないこともあった」 「交渉は遅々として進まなかった。 期成会という広域圏の組織体と、甘木市民としての水没者の立場との間に、深い溝が横たわっているようだった。 私は思い余って、確かに私は期成会の会長ですが、同時にみなさんに選んでいただいた甘木市の市長でもあります。 絶対に、私はみなさんの味方です。 期待を裏切るようなことは致しません。 あすから一人ずつ私と会って欲しい。 そして、何でも要求をぶっつけて下さい 塚本市長は「絶対に、私はみなさんの味方です」という、この言動を貫かれた。 この「補償の精神」が水没者のために、交渉を貫き通し、水没者の信頼を勝ち取ったといえる。 とくに、ワラビ、ゼンマイ、山芋など当時天恵物の補償の制度がなかったものの、この補償を引き出した。 さらに、では、水没する江川小学校の移転補償交渉は、移転先の決定や、仮校舎の位置など、困難が予想されたが、決裂覚悟の強い姿勢で臨まれ、甘木市側の要求額で妥結したことである。 江川ダム、寺内ダムも短期間の交渉での調印が行われた。 塚本市長の「絶対に、私はみなさんの味方です」という精神が、このような短期間における調印を迎えた一つの大きな要因となったことは確かだ。 塚本市長の「補償の精神」の根底にあるのは、それは愛郷心だと思われる。 市長は常々水没者の幸せと甘木市の発展を心から願っているからである。 青年時代に招集を受け、中国中支戦線に従軍、再度招集を受けた経験が、戦後日本の復興を誓い、その精神が愛郷心を培ったことと推測される。 昭和48年10月「」が制定されているが、この2つのダムは適用されていない。 このため塚本市長は、 「江川ダムは措置法の施工前に完成、寺内ダムは施工前に着工という理由だったが、割り切れない思いだった」 と述懐し、なお、提言として、 「ダム建設の可能な地域というのは山間僻地に限られている。 つまり政治的、経済的に弱小な市町村である。 現在の選挙を基本とする政治形態からみれば、得票に繋がらない地域からの陳情や要望は実現しにくいのかもしれない。 しかし敢えて言わせてもらえば弱者に日を当てる政治の原点に立ち還って水源地対策を考えない限りこれからの水資源の開発はあり得ない。 」 と述べている。 繰り返すが、ダム完成の後までも「絶対、私はみなさんの味方です」という精神を貫いていることがよく理解でき、愛郷心が脈々と流れている。 昭和53年寺内ダムの竣工時に、福岡都市圏は大に見舞われた。 この年にはいって、福岡地方は異常少雨傾向が続いた。 降雨量は年平均1845mm以下で極端に少なく、福岡都市圏の水源ダムは 730万m3(18. 7%)に落ち込んだ。 福岡市水道局は5月20日15時間の給水制限を開始、さらに、6月1日給水制限が強化され5時間給水となり、高台にある住宅街では完全断水4万戸を越え、断水による休校も続出、ふるさとへ一時帰宅する渇水疎開を強いられた母子らもいた。 一方では、水を多量に使用する飲食店、美容室、食料店の渇水倒産が起こっている。 これらの断水騒動は、翌年の春雨によって、3月25日、 287日間に及ぶ給水制限解除で終止符をうった。 この騒動中、福岡都市圏一帯は「福岡砂漠」と呼ばれた。 いまから27年前のことであるが、もしこの時江川ダム、寺内ダムの水が福岡都市圏へ送水できなかったなら、さらに市民生活は悪化していただろう。 この 『土と水と炎』の前書きで、当時の福岡市長であった進藤一馬は、大渇水のことにふれて塚本市長の好意に感謝している。 水源市甘木市に筆舌に尽くせない厚情を頂いた。 実に有り難いことだった。 」 さらに、塚本市長の愛郷心を高く評価されている。 「人間性の強さ、甘木人として溢るる愛郷の情熱の一生を貫いているのに強く打たれた。 事に当たれば行動せずにはいられない猛烈な実行力、市長時代その公用車に消防団の法被をつんで、いざという時には率先して活動する覚悟の敢闘精神で常に市民を護る用意である。 」 いまどき、火事ともなれば、消防団の法被を着て、駆けつける市長は全国にはほとんど見受けられないだろう。 昭和56年10月15日、財団法人日本ダム協会から、第一回の「ダム建設功績表彰」を受賞されているが、このとき「もちろん、金沢良雄東大教授を委員長とする5人の選考委員は、塚本倉人個人を選んだのではなく、水源地として、2つのダムの建設に協力してくれたすべての人たちの代表として、私が表彰を受けたのである。 」と、その心境を述べている。 平成6年8月、福岡地方は、再び異常少雨傾向に見舞われた。 平成の大渇水と呼ばれている。 このとき昭和53年の大渇水を経験した福岡都市圏は、筑後川からの綿密な配水によって、市民の生活にとくだんの支障が起こることはなかった。 このことは江川、寺内ダムの建設にあたった水源地塚本市長の功績は大きい。 今日、福岡都市圏の発展の一要因は、水源地甘木市に負っている。 それ故に、江川ダム水没者87世帯、寺内ダム水没者57世帯の移転者の方々の恩恵を忘れてはならない。 市長を辞められた後も、なかなか公私に多忙な日々を送り、そのあいまに柔道や魚釣りを楽しまれた。 平成13年5月11日、甘木市の発展に尽くされた塚本倉人市長は89歳の生涯を閉じた。 甘木市下二日町の光照寺にいま静かに眠っている。 戦後の甘木市の発展は、塚本倉人の人生と重なってくる、歴史でもある。 ダム便覧内の写真、文章、データなど全ての内容の無断転載を禁じます。

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