カミュ ペスト あらすじ。 カミュ「ペスト」のあらすじ

カミュの小説ペストでは、猛威を振るっていたペストが、ある時突...

カミュ ペスト あらすじ

今回感想文という形としてまだまとまってはいません(爆)が、とりあえずお気に入りシーンの紹介という形にしてだらだら書いてみました。 さてさて今回も先生を召喚します。 このおはなしについては、あらすじより、概略のがわかりやすい。 が書いたフランスの小説。 出版は1947年。 ペストに襲われたのオラン市を舞台に、苦境の中、団結する民衆たちを描き、無慈悲な運命と人間との関係性が問題提起される。 医者、市民、よそ者、逃亡者と、登場人物たちはさまざまだが、全員が民衆を襲うペストの脅威に、助けあいながら立ち向かう。 舞台設定はのある街に、ペストが流行って住民がバタバタ死んでしまってさあ大変・・・ はじめはそのこと(ペストの出現)に気づきすらしない群集心理がパニックに陥ったり思考停止したり、それと並行してそれなりの日常も淡々と営まれ・・・という感じで年代記風に淡々と書かれていて、結構こあかったりもします。 災害ということで、の経験が被って色々と思いだしたり、考えさせられるシーンも多い。 正直ですね、どの局面について感想文書くかからまず迷ってしまいます。 読みがいがあるとはこのことですねー、おすすめですよー。 ================= 本日の登場人物紹介。 リウーさん。 主人公(といっていいのかはわかりませんが、このひと中心に物語は進行していきます。 )このひとは大人そのものというか、単独者の生き様という奴を背中で語る系というか、とにかく君です。 多少ココロの揺れなどもあるのですが、それを決して表に出すことはせずに超冷静に自分のすべきことに医師として向き合います。 そして(後述しますが)やさしい。 かっこいいの一言です。 憧れにはなっても、私には感情移入の余地はありませんw• 住民の観察日記をつけている根っからの異邦人。 自分で何かできることはないかと考えた末、リウーさんとともに保健隊を結成しちゃうように実行力に溢れた人。 こちらはある意味でリウーさん以上にガチの単独者かと踏んでいます。 ランベール君。 フランス人の青年。 たまたま取材でこの街に来た新聞記者。 ペストで封鎖された街からどうにか逃げ出して恋人の待つパリに帰りたい。 フランスだけに!彼女に会えないのがツラすぎて、どうしたら関所を突破できるかアングラな方法まで手段を選ばず探し回って苦労している。 ペストと対峙する医者リウーさんを尊敬していて、保健隊の活動に協力していない自分を少し後ろめたく思っている節がある。 そして本日ご紹介する場面はこちら、 ランベールさんが街の脱出にどうしてもうまく行かなくて落ち込んでしまうシーンより。 しかし、どうも死ねないような気がするな、今は」 (ランベール)「そうでしょう。 そのくせ、あなたがたは一つの観念のためには死ねるんです。 それはありありと目に見えてますよ。 ところがです、僕はもう観念のために死ぬ連中にはうんざりしているんです。 僕はヒロイズムというものを信用しません。 僕はそれが容易であることを知っていますし、それが人殺しを行うものであったことを知ったのです。 僕が心をひかれるのは、自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということです」 リウーは新聞記者(ランベール)の言葉を熱心に傾聴していた。 でもね・・・ ランベール君はそう言われてどうするかというと、激昂します。 「観念ですよ、それもちっぽけな!」と切れはじめてしまうんですね。 リウーさんはキレたことに対して何も言いません。 淡々と「あなたは間違ってません」と言う。 (リウー)「君のいうとおりですよ、ランベール君、まったくそのとおりです。 ですから、僕は、たとい何もののためにでも、君が今やろうとしていることから君を引きもどそうとは思いません。 それは僕にも正しいこと、いいことだと思えるんです。 これは誠実さの問題なんです。 こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」 誠実さ=職務を果たすこと と考えるというリウーさんに、ランベール君は迷いを吐露する。 (ランベール)「僕には何が自分の職務だかわからない。 「君は間違ってはいませんよ」 実はリウーさんの奥さんはペストではない病気になって遠くの療養所にいるのだ。 ここ非常に感動したシーンのひとつなんですがー、実際のところこの小説はこういう目立つシーン でない部分 にもっと大きなキモを置く憎い構成で、そっちについてはまた別の機会に語ることにしたいと思います。 リウーさんが、恋人のもとに駆け付けたい気持ちでいっぱいのランベール君のことを応援する気持ちはおそらく本物だ。 だから、力をこめて、彼はランベール君の言葉を即座に否定する。 小説のかなり冒頭にリウーさんが療養所に発つ妻を送るシーンがある。 彼は妻が病気になったことについて「自分がほったらかしにしたせいで」と謝る。 だから、彼からしたら、ヒロイズムとして「いいほう」に立っている訳では全然なく、むしろ愛するひとを病気にした立ち位置にいるのが自分なのだ。 今まで妻が半分手遅れになる位までほったらかしにしておいて、 そうまでして自分の職務とやらに専念しておいて、 いざ手遅れになったからといって慌てて手の平返しをして職務をなげうつのでは、今まで妻をほったらかしにしておいたこと自体を愚弄することになってしまう。 自分のやったことについて責任をとるというのは、 (何があろうとも)これが私の意図した成果なのだと、 そういうことで・・・ それが誠実さという単語で表されているのだと思う。 往診やら病院の運営やらに粛々と迷いなく取り組むように見えるリウーさんは、時折届く療養所からの電報を大事に何度も読み返している。 医者として誠実にペスト禍という事態に向き合っているという誇り、そして、妻もそんな自分を信じてくれているという信頼感を、一時の感情のままに台無しにしてしまわないように、彼は誠実に職務に専念し続けなければならない。 そういう彼の業としての「枷」、そういう縛りのないランベール君はせめて彼の愛を自由に貫いてほしいと心底リウーさんは願っているようにも見えるといったら言い過ぎだろうか。 自分が信じた道を信じて進むべきだと若者に説くリウーさんの言葉はおそらく若き日のリウーさん自身に向けたものでもあるのだろう。 描かれないので推測だけれど、リウーさんが若いランベール君の言葉を熱心に聞くのは、彼自身の悩んだ時代に似ているからではないかと、 だから、ランベール君のめちゃくちゃなやつあたり(引用では略したけれど、結構ランベール君はやけっぱち状態でリウーさんとタルーさん両名をヒーロー気取り呼ばわりする)に対して、彼は一切の言い訳というか誤解を解こうということはしない。 そういう発言を受けて、「疲れた様子」で黙っているだけだ。 それだけ言った瞬間に飄々と部屋を出ていく。 自分の周りに起きていることに対して、どう動くのかはそれぞれの個人にゆだねられた自由で、好きなように選択すべきものなのだ。 ランベール君同様、 文中で「職務」と表現されたそれは私の中でもまだよくわからない。 それで、保健隊への協力も出来る範囲でしていこうと考えを改めた。 自分が大事にしたいのは「観念(=誰かのために)」ではなく「現実(=自分のために)」なのだと、より確からしい道を行くことに決めたのではないかと、思った。 人間は、観念なんかではなくて、現実に生きているんですよ、と だからこそ、 ヒロイズムが欺瞞だと見抜いた自分をきちんと信じてください、と あくまでもやさしくリウーさんは若者に語りかけた。 「人間は観念じゃないですよ」 人間は観念じゃ ない、 そうだよ、ねー・・・ ==================== のひとつです。 (はペンで線を引くよりは見られても恥ずかしくないのでおすすめ!) 自分でもびっくりするのだけれど、実はというかぁやはりというかぁ、まだ半分しか読んでいないんですよー。 半分の感想ですが、「人間は観念じゃないですよ」といわれた(いわずもがなで私はランベール君にそっくり感情移入してしまってますから、半分、私がそう言われた位の気分での思考回路になってます)私的クライマックス、これがどういう意味なのか一週間くらいは余裕で考えるおかずになっていました。 いや、色々忙しかったのもあるんだけど・・・ 私は燃費よすぎだと思う(号泣)本が読み終わんないw こんなんじゃ読書会に参加できないw が、がんばれww それはそうと、感情移入というものは自分にインストールされている色々の中でもなかなかよいシステムだとしみじみ思う、 これ共感というものとも違うんではないかと、 その誰かに「なりきる」ことは、「なる」ことではなくて・・・その分、立ち位置が客観的でいられる分、冷静な判断に基づいた方針を打ち出せる。 且つ前提としてその人物に対して寄り添う立場でもある。 (=弁護士) 感情移入は、単純にその人に「なる(=共感する)」に留まらず、「自分がその人になって、どう動くか」まで含んだ能動的な言葉ではないかな(共感=感情移入としている辞書もあるけれど、違うくないか) 私は一般的に自分自身というものを完全に許すことはやっぱり難しいことだと考えている。 まー私だけなのかもしれないけれども、普通、お釈迦様でも超人でもいいけどそこまで悟れる人なんていないでしょ。 完全に自分の味方(弁護士)になれない分は、裁判官だの検察官だの自分(ないし、自分を投影した誰かまたは社会、世界)を責める構造になってしまう。 責めているだけでは「~~が悪い」で思考停止するので不毛だ。 「~~すればいいじゃん!」とか「~~しないのが悪い」でも論調が責める系ならみんな同じね。 そう「してみよう」と思えないこと自体が問題なんだから。 何らかの解決を本気で望むのであればまず、責められた場合の弁護士的なが自分の中で出来てないと話が次の段階に進めない。 で、難しい、その直接自分に対するアプローチという奴ができない場合の有効策が、純文学でも映画でもブログ読むでも人の相談に乗るでもなんでもいいんだけど、感情移入システムだと思う。 一旦自分の全部ないし一部を誰かに仮託した上で冷静に解決策を模索して、それをあとから自分にも適用するというか。 自分だったらこうするのにな、を そうか自分もこうしよう、まで、直接の自分裁判をすっ飛ばして持って行けるんだから、活用しない手はないでしょう、と。 そんな風に思います。 本読むの楽しいよー。 (疲れるけど・・・) 今日はここまでです。 おやすみなさいー denkilemon.

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アルベール・カミュ『ペスト』 あらすじ

カミュ ペスト あらすじ

もくじ• 異邦人? ペスト? アルベール・カミュ 1913-1960 は戦中から戦後を代表するフランスの作家です。 母がスペイン系であり、アルジェリア生まれであることから、いわゆる生粋のフランス人作家という人じゃありませんが、そもそもパリという街が代表するように、フランスは異種交配が盛んであり、フランスが芸術の国だというのはそこに理由がありますから、たとえばユダヤ人文学ほど、出生についてあれこれ偏見を持つ必要はないです。 カミュは1957年にノーベル文学賞を受賞しています。 一躍有名したのは、初期作品である『異邦人』 1942 でしょう。 アラブ人を殺すムルソーという青年が主人公で、捕えられた彼は理由を「太陽のせいだ」という有名な台詞があります。 カミュを読むとき、『異邦人』がいいのかな? と思われる方も多いと思うので、個人的な意見を述べると、『異邦人』のほうがよいです! 結局『異邦人』が彼の最高傑作であったのかな、と思いますし、彼の文学的業績もここにすでに凝縮している、といっていいと思います。 『シーシュポスの神話』 1942 などの哲学的エッセイも多いことから、作家というよりは思想家と見なされることも多いですし、戯曲も多く手掛けていることから、戯曲的側面を強調されることもあります。 フランスのアーティストというのは、いわゆるこういう多面的活躍をするルネサンス的な人が多いのが特徴です。 先にあげたサルトルも哲学者ですが、小説を書いています。 ボリス・ヴィアン 1920-1959 など、作家であり、ジャズトランぺッターでした。 実存主義って、なに? サルトルやカミュらが提唱した実存主義とは、後に構造主義の思想家たちらが「差異」と呼んだものと同じです。 それをもっと人間の内側から表現した言葉という感じでしょうか。 裸の人間像といったようなものです。 ここには2つの悲惨極まりない大戦を潜り抜けた果てに見つめた、フランスだけでなく、ヨーロッパ全土を覆った人間の存在の根源を抉りだそうとする体験が反映されています。 この実存主義思想はフランスから、全世界に波及します。 カミュは戦後日本でもよく読まれた作家の1人です。 最近は実存主義思想自体が論じられなくなりましたが、現代の作家では中村文則さんなんかが、カミュの影響を受け継いでいるんじゃないでしょうか? その実存主義ですが、それを最初に提唱したのは、デンマークの哲学者であるキルケゴール 1813-1855 といわれています。 小説家ではチェコの作家であるフランツ・カフカ 1883-1924 だといわれます。 カフカは「不条理文学」の名前で語られますが、不条理と実存主義とは切っても切り離せません。 つまり、不条理を前にすると、本当の人間の姿、つまり実存的人間が明確に表れる、というわけです。 ここら辺りを前提にして、カミュの小説を読んでいくと、テーマの輪郭がくっきりと浮かび上がってくると思います。 『ペスト』を読む あらすじは単純で、1940年代にアルジェリアのとある港町で、ペストが猛威を振るいます。 最初はネズミの死骸からはじまるのですが、1日百人を超える死者がではじめて、町は隔離されることになります。 カミュはこれを「追放された」と表現しています。 主人公はリウーという医者で、彼は患者たちを救うために、町を奔走するわけですが、この小説には重要な論点がいくつかありますので、解説します。 ポイント1 この小説は「私」の一人称で語られてありますが、この人物は実は最後に明かされますが、いっちゃいますけど、主人公のリウーにほかなりません。 これは最後に明かされるようになっているのですが、なぜこんな仕掛けを施しているのか? ポイント2 この作品はパニック小説ではありません。 また、次の点が非常に重要な箇所です。 この作品は、ペストに覆われた町の住民たちの人間ドラマなのですが、ハリウッド映画などでよくあるような、たとえば、こういう極限状況に置かれた人物たちが非道徳性を表して残忍なことをしたり、2つのグループに分れて敵対し合って互いのどちらが「救済」の正しい道を示しているのか? と論争したり、神の存在を問う、とか、そんな内容でもありません。 この小説が問うているのは、極限状況において表れる、あくまで人間たちの実存性であり、徹底したドラマツルギー性の否定が貫徹しています。 ポイント3 カミュの思想として、よくいわれることに「連帯」というものがあります。 『反抗的人間』 1951 と言うエッセイをカミュは書いているのですが、この連帯は権威に対する革命家たちのそれであり、カミュはそれらの思想は後に自らも権威を欲する、として批判しています。 カミュのいう「連帯」感覚は、もっと実存主義思想に根差したものです。 この感性は、同時代のサルトルと袂を分かつ最大の論争となったものなのですが、実はこの両者の意見はすれ違っています。 サルトルの共産主義への情熱は、実存主義の延長線上に位置する「行動」「情熱」としてとらえるべきものであり、いわゆる「全体主義」なるものとは意を異にします。 サルトルも一貫して実存主義者でした。 一方カミュのいっていることは、徹底して実存主義を貫く姿勢を賛美するものであり、つまるところそれはいわゆる「連帯」を否定するものではあり、「革命家」たちを、直接否定するものではありません。 彼は「反抗する人間」を賛美しているんです。 ポイント4 『ペスト』の最大の特徴は、この小説は突如ペストに町が襲われ、大量の死者をだし、その後ペストがやってきたのと同じように突如町から去っていくという筋立てなのですが、実はその後もこの不条理劇は続いている、という暗示的な幕の下し方です。 悲劇は終わった。 なぜ、ハッピーエンドではないのか…? ぼくは『ペスト』をこう読んだ この小説はフィクションでありながら、記録文学的衣装を纏っています。 さらに、先に述べたように、主人公のわたしが誰であるのかを曖昧にして、物語は語られていきます。 主人公のリウーは医師という役柄もありますが、作品中徹底した傍観者的役回りを担っています。 しかし、この小説は「傍観者」から語られることを不可能としています。 要は、カミュが述べているのは、「傍観者」という存在を否定しているわけです。 この物語の「意味」の不確定性は、人物像にも表れていて、彼らはこの苛烈な状況を潜り抜けるために、それぞれに役回りを持ち、連帯しますが、誰ひとり同じ思想、同じ行動、同じ運命を辿る者はいません。 ペストは「抽象」と訳されていますが、この直訳は正しく、そこから波及していくそれぞれの主要人物たちは、実に具体的感傷を抱き、脱走を試み、中にはペストに犯された今の状況を楽しむ者までいます。 たとえば、パヌルー神父は「これは神が与えた試練であり、受け止めなければならない」といい、実際ペストで死に至るわけですが、この点をとりあげて、カミュがここでキリスト教批判を描いている、というのは、的を射ていません。 カミュが描いているのは、人物たちの極めて具体的な実存性です。 そこに一切の意味はないんです。 死んでいくものは死んでいくし、生き残るものは生き残る、ただそれだけの話です。 一切のドラマチックな構造を否定したこの記録風文学は、すべての人物の表面を剥して、代わりに、生々しいそれぞれの実存性を露にしていきます。 この「記録風文学」は、カミュの明確な意図の元で描かれたものなわけです。 最も残酷な死に方をするのは、ジャン・タルーなる人物です。 彼は町からペストがいなくなり、交通の便も元通りになった後、皆はなればなれになった妻子たちと抱擁しているそのとき、この町の最後の犠牲者となって死んでいくわけです。 『ペスト』の最大のテーマがここにあります。 カミュはリウーに「記憶は残る」と語らせていますが、ペストが過ぎ去ったあと、幸福感に酔いしれる者もいれば、その危機意識を相変わらず持ち続けたまま生きる者もまたいるわけです。 アルベール・カミュと『ペスト』 カミュはノーベル賞受賞後の3年後、46歳の若さで自動車事故で亡くなりました。 運転していたのはカミュではなかったわけで、自殺ではありません。 まさしく彼が描き続けてきた不条理以外何ものでもない人生の終わり方だったといえます。 『ペスト』は『異邦人』に次ぐ彼の代表作といわれていて、彼の思想が具現化した傑出した作品です。 刊行された当時は、フランスでは大ベストセラーになったといわれます。 カミュはこの小説を完成させるのに、相当苦労をしたみたいです。 実際に、この小説の完成度は目を見張るものがあり、非の打ち所がないです。 構成、人物造形、心理描写、外面描写、テーマすべてにおいて完璧な作品でしょう。 ただし…人物のエモーショナルやドラマを小説に期待する読者にははっきり言って物足らないと思います。 頭で精巧に作り上げた小説、といった感じです。 ただし、衒学的というのはあたりません。 普通に文学している作品なので、文学作品を読む人には、とてもよく理解できる作品です。 新潮文庫にひとこと ぼくは新潮文庫版で読んでいるのですが これまで3回くらい読んでいます 、役者は宮崎嶺雄さん、という方で、もう亡くなられています。 たぶん直訳に近い形で訳されたんだと思うのですが、文体があまりに生硬です。 思弁的な小説であり、ストーリーを楽しむ小説ではないので、観念的な叙述が長くつづくのは構成上仕方ないのですが、読んでいて、明らかに誤訳だと思われる箇所もありますし、すでに、最初の描写の文章において、イメージが湧かず、リズム感がないです。 読書慣れしている方は普通に読める翻訳だと思いますが、翻訳ものに慣れていない人は、ちょっと読むのがキツイかもしれませんので、ご注意を。 『異邦人』を読んで、なんかおもしれー、と思ったら、『ペスト』読んだら、カミュにはまります。 『異邦人』でぼんやりしていた部分も、くっきりしてきます。

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カミュ『ペスト』の名言『絶望に慣れることは、絶望そのものより悪いのだ』100分de名著

カミュ ペスト あらすじ

なぜ私たちはこんな目に遭わなければいけないのか。 コロナがもたらす意味は果たしてあるのか。 人々が起こす混乱を避けることはできるのか。 その結末はどこにあるのか。 こんなときだからこそ、 今こそ読むべき本として挙げられているのが アルベール・カミュの「ペスト」です。 中世ヨーロッパでの疫病騒ぎの中、 人々の行動や裏側にある思想を描いた本です。 望まない出来事が我々にもたらす意味や 人々の行動を読むにつれ 今の東京や大阪と状況を重ねてしまうのです。 今回コロナの影響で再び注目を集め、 100万部を突破しました! この本の結末を一言で表すのはあまりにも難しく、不可能に近い気がします。 なぜなら、コロナのような抽象的な敵に対する私たちもまた、 抽象的であるからです。 社会的に正解とされることが、果たしてすべてにとって正解といえるのでしょうか。 コロナで騒がれる今、 私たちが求められるものは何なのか、 今の結末はどうなるのか。 あらすじや結末をまとめたいと思います。 ・登録料無料 ・初回50%オフクーポンが発行されます。 ・「ペスト」825円 税込 が、413円で読むことができます! アルベール・カミュの人物紹介 アルベール・カミュ フランス文学を代表する小説家・哲学者で カミュと言えば「異邦人」が有名で、 43歳の若さでノーベル文学賞を受賞した作家です。 アルジェリア出身。 「ペスト」は 不条理の哲学を謳った作品で、1947年に発表しました。 目的や意味がないこの世界で それでも人間は生きていかなければいけない。 納得がいかない、腑に落ちない出来事は多くあるのに、それでも生きていかなければいけない。 ペストという不条理との戦いを描いたカミュの代表作で不条理哲学と呼ばれています。 「ペスト」あらすじ 舞台となる街 舞台はオランというアルジェリアの街。 「ペスト」という疫病が街を襲う。 登場人物• 医師:ベルナール・リウー・・・神を信じずに、不条理な状況に立ち向かい人を救おうとする医師。 新聞記者:ランベール・・・街が封鎖された直後、ひとりだけ地元パリに戻りたいという。 旅行者:タルー・・・死刑反対運動をするが、それこそ人の死に加担していることを恥ずかしく思い悩む。 自分は加害者にも被害者にもなりえるのだと。 下級役人:グラン・・・特段偉業を成し遂げてきたわけではないが、患者のお世話をする保健隊に入り、誠実に仕事をこなす。 密売人:コタール・・・ペストで騒がれる世では、自分が悪人であることが薄れ、普通に生活できるようになった。 イエズス会の神父:パヌルー・・・「このペストは特定の人への罪に対する神からの罰である」と説教する。 あらすじ 疫病ペストで店や交通は閉鎖される。 ランベールは恋人のいるパリに戻るための脱出を考え、コタールは密輸業者を紹介する。 その頃教会ではパヌルーが「ペストは罪人に神が与えた罰である。 反省すべき時がきた」と、特定の人に対し罪を与えられたような言い回しで説教をする。 患者がどんどん増える中、リウー、タルー、グランは懸命に患者の治療を続ける。 ランベールは、リウーとタルーにパリへ戻ることを告げるが ただ誠実に現状や患者と向き合い戦うふたりをみて、 またリウーの妻が別の街で闘病中であることを知り、 パリへの脱走をやめ、 タルー、グランのいる保健隊で、患者に向き合うことを決める。 ある日、ペストに侵された少年が、もがき苦しみながら死んだ。 それでもまだ「神が与えた罰だと言うのか」と神父パヌルーへ問う。 その後、パヌルーも死んだ。 そしてタルーも死んだ。 そしてペストの終息。 人々は元の生活に戻り、ランベールは妻と再会。 コタールは逮捕。 そこでリウーは、闘病中だった妻が死んだことを知る。 「ペスト」結末 最後に、この物語の語り手がリウーであったことが明かされる。 ペストを読み解く鍵 倫理とは• リウー リウーは、この疫病による人間が太刀打ちできない状況において あらがうためには 見極めることが大事だという。 神と言う存在に支配されずに、人間の手で、不条理に立ち向かうことこそ倫理だとする。 グラン 保健隊で活躍する下級隊員グランは、偉業を成し遂げることはなくとも、ささやかな仕事で役に立ちたいと行動する。 目の前の出来事に、誠実に向き合い行動することが、グランにとっての倫理だった。 ランベール 戦争を既に経験してきたランベールにとって、理念という言葉は、社会の中で都合よく使われる言葉でしかなかった。 誰かが作り出した理念の為に死ぬのではなく、自分が愛するもののために生き、死にたいと考えていたランベールは リウーやタルーをみるうちに、理念の為ではなく、自分にとっての倫理の為に残ることを決める。 コタール ペストのおかげで悪人として捕まらずに、ラッキーとすら思っている。 終息後に捕まることになるが、その事実が、罰を与えるのは、神ではなく人間であると表現されているよう。 パヌルー 死因は不明。 ポイントは、この不条理な事実に立ち向かう人々の原動となるものが 「誰かに作り出された理念」 ではなく、 「それぞれの倫理」 であることだと感じました。 神の存在 神を信じる者と、神を信じない者。 ペストやコロナのように、人間を襲う不条理な出来事に、神は意味をもたせたのか? もたせたとして、じゃあ神は人間を救うのか? そんな無責任な思想を信じ従うよりも、 人間である自分がこの不条理な出来事に抵抗するしかないというリウーの考えがカミュの主張のひとつだったのでしょう。 「ペスト」とは この小説の「ペスト」は疫病ですが、 このペストはつまり、我々が生きていくうえで、 自分ではどうしようもない、受け入れたくない事実の象徴とされています。 いじめだったり、親しい人の死もまた同様ですね。 カミュが伝えたいこと ペストからなにを学ぶか? 今回のコロナのような、不条理な出来事から人は何を得るか。 リウーの言う 「ただ、その人と過ごした認識と記憶」 ではないでしょうか。 この小説の語り手が、リウー自身であったこと自体が、カミュの主張なのですね。 登場人物が持っている「不条理な物事への見極めと理解」は、絶望の上に出来事に立ち向かう人の意思を感じるもので、我々が今まさに必要とされているものです。 倫理、そして市民の連帯。 コロナの終息には、これこそが必要だと気づかされます。

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