大鑑 巨砲。 大鑑巨砲主義

大鑑巨砲主義 : 車楽、写楽、洒落

大鑑 巨砲

日本海海戦で完全勝利したが、太平洋戦争での『大鑑巨砲主義』(戦艦大和) の敗北を作った東郷平八郎の真実 前坂 俊之(静岡県立大学教授 ) 東郷平八郎連合艦隊司令長官は世界的週刊誌『タイム』誌の表紙を飾った最初の日本人である。 明治三八年(一九〇五)五月、日本海海戦で東郷の率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅したことで、日露戦争に勝利した極東アジアの小国・日本は一挙に西欧列強の仲間入りを果たした。 「アドミラル・トーゴー」の名は「東洋のネルソン」として世界に響き渡った。 東郷平八郎は弘化四年(一八四八)一月、薩摩国鹿児島郡(現・鹿児島市加治屋町)で薩摩藩士・吉左衝門の三男として生まれた。 同町は西郷隆盛、大久保利通、大山巌ら維新の志士やリーダー多数が輩出した所で、四歳年下の山本権兵衛も近所の生まれで幼なじみである。 慶応三年(一八六七)六月、東郷は分家して一家を興した。 戊辰戦争では春日艦に乗組んで、東北や函館に出征して功を上げ、明治四年から七年間、英国に留学し海事を治めて近代海軍の姿を学んだ。 明治十一年(一八七八)帰国後に中尉に任官し、海江田テツと結婚する。 この時、東郷三二歳でテツは十七歳。 日清戦争では浪速艦長として豊島沖海戦に参加。 「高陞号」撃沈事件で一躍、世界的にその名を知られた。 戦争末期に少将に進んで常備艦隊司令官となり、台湾にも出動した。 三八歳から四十歳にかけては一時体調を崩し、病気療養が続いた。 2 予備役寸前を山本権兵衛に救われ、大抜擢 その後、海軍大学校長、佐世保鎮守府、舞鶴鎮守府の各司令長官を歴任するなどして明治三十七年、五十六歳で大将に昇進した。 海軍内ではどちらかといえば、傍流を歩み、特に病気勝ちで目立たない地味な存在といってよかった。 海軍が大整理を行った際、予備役となる寸前を「東郷はもう少し様子をみましょう」との海軍大臣・山本権兵衛が一言で、あやうく救われたのは有名な話である。 日露開戦四カ月前に連合艦隊司令長官に、当時の常備艦隊司令長官の日高壮之丞ではなく、大方の予想をくつがえして舞鶴司令長官だった東郷が大抜擢された時、周囲に大きな驚きを持って迎えられた。 3 明治天皇に彼は『運が強い男だから』 心配した明治天皇に対して山本権兵衛は「彼は運が強い男ですから」と答えた。 日高の健康が優れなかったこと、東郷の「高陞号」撃沈事件で見せた的確で周到な行動力、英国で身につけた国際海洋法の秀でた知識、独断専行型の日高と違い海軍軍令部との緊密一体となった作戦行動には東郷がうってつけであることなどが抜擢の理由であった。 東郷は日本海海戦でカリスマ的な指揮能力を発揮して、バルチック艦隊の通過コースを対馬海峡であると的確に予測して迎撃し、海戦では敵前での決死的な丁字戦法(敵前大回頭、東郷ターン)によって日本側の損害は最小に抑えてバルチック艦隊を全滅させた。 4 日本海海戦で完勝! 日本艦艇の損失は水雷艇三隻に対して、バルチック艦隊は撃沈された戦艦、巡洋艦十六隻、撃破自沈五隻、捕獲六隻など、ウラジオストックに入港できたものは合計五〇隻からなるバルチック艦隊で巡洋艦などわずか三隻しかなかった。 ロシア側の戦死者約五千人、捕虜約六千人に対して日本側戦死者百十人という世界の海戦史上にもない空前絶後の勝利をおさめた。 この結果、東郷は「海戦の神様」、「聖将・東郷」「強運の提督」としてあがめられ『東郷神話』が生まれる。 国民的英雄となった東郷は以後 軍令部長(四年間)を歴任、日露戦争の偉勲によ り功一級金鵄勲章、大勲位菊花大褒章を受け四十年九月には「男爵』「子爵」を飛ばして一挙に伯爵を授けられた。 軍人出身で大臣、総理大臣などを歴任した山県有朋、大山巌らは公爵、侯爵を授けられたが、政治経験のない軍人一筋では最高位であった。 大正二年(一九一三)四月に元帥に列せられ、翌三年、東宮御学問所総裁となり以後、七年間にわたって皇太子(昭和天皇)の教育の担当となった。 皇室の藩屏となる華族制度そのものからみても象徴的な地位についたのである。 5 「軍神・東郷神話」を作る この学問所で幹事を務めていたのが小笠原長生(海軍大佐、その後子爵)で、小笠原は「東郷の副官」として東郷の「偉勲」のみを強調した伝記を何冊も書き続けて東郷の英雄、神格化を熱心に進めていった。 日本海海戦の稀に見る勝利は世界にも日本にも計り知れない影響を与えた。 以後の世界の海軍戦略を一新させ、戦艦の巨砲同士の打ち合いで勝敗が決まる「大艦巨砲主義の時代の幕を開き、世界的な軍艦建造競争が始まった。 「勝って、カブトの緒を締めよ」とは連合艦隊解散式での東郷の自戒の訓示だが、結局、この完勝に東郷も海軍も眼がくらみ、以後の海軍戦略が航空母艦や航空機が中心へと移っていく中で、あくまで日本海海戦を金科玉条として、艦隊決戦で勝負をつける時代遅れの戦法に固執していく。 東郷神話の成功のワナに陥り、その後の海軍戦略の変化の見通しを誤り、日本を敗北に導くタネとなった。 6 海軍内で絶対、神格化 日露戦争後の東郷は神様扱いであった。 元帥として君臨し、長生きして昭和に入ると、元老は西園寺公望ただ一人となるが、東郷も海軍の最長老、元老役として海軍,軍部内でも絶対的な権威と化して、誰も反対できない雰囲気を作った。 昭和五年(一九三〇)一月のロンドン海軍軍縮条約の際、東郷は八十三歳となっていたが、艦隊派のシンボルとして、条約批准の反対にまわった。 同会議に財部彪全権(海相)が外交上慣例化していた夫人同伴で出席したことに東郷は腹を立て「軍縮会議は戦争と同じじゃ。 そこにカカアなど連れて行きおって!」と条約派に息巻いた。 日本の方針は「補助艦全体の総トン数、大型巡洋艦ともに対米比率を七割とする」というものだったが、艦隊派の加藤寛治軍令部長らが猛反対、政府が米比率を「六割九分七厘五毛」で妥協したのにも、東郷は「七割が受け入れられなければ、断固引揚げるのみ」との強硬な指示を出した。 7 ロンドン軍縮会議で統帥権干犯、老害の極みに 東郷を頂点とした艦隊派のグループは条約調印に強硬な反対論を並べて加藤軍令部長が、いわゆる「統帥権干犯問題」を引き起した。 昭和九年 一九三四 五月、東郷は八十六歳で亡くなるが,それに先だって侯爵を陞爵した。 大艦巨砲時代のシンボルとして無用の長物となった巨大戦艦「大和」の建設着工が始まったのはそれから三年後のことである。 日露戦争の成功と、太平洋戦争の失敗は東郷の功罪にぴったりと重なる。 東郷の輝かしき日本海海戦の前半生の勝利と比べ、その晩年は艦隊派に担ぎ出されて頑迷固陋となり誤った判断をしてしまう、まさに老害といってよい存在と化した。 ところで、最新の研究では日本海海戦での輝かしい『東郷神話』も事実とは異なるっていることが次々に明るみに出ている。 8 東郷神話の真実が明かになる 最近明らかになった『極秘明治三十七八年海戦史』や、それに基づく野村実著『日本海海戦の真実』講談社新書(一九九九年刊)、田中宏己著『東郷平八郎』筑摩新書 一九九九年刊 などの研究によると、バルチック艦隊のコースを対馬海峡ではなく一時、東郷も迷よいに迷って津軽海峡と予測して艦隊を北進する寸前であったこと。 丁字戦法そのものが東郷の決断や秋山真之作戦参謀の考案したものでもなく、山屋他人大佐(日本海海戦では『笠置』艦長)の発案を採用し、何度もリハーサルを重ねて失敗し四度目の実戦で成功したことなど、東郷神話のベールがはがされている。 「海軍の神様」、伯爵として頂点を極めた東郷の晩年は政治の世界を離れると、「足るを知る」を信条として貫いており、若い時とは違ってカネに不自由はなかったが、生活は質素そのものだった。 佐藤国雄著『東郷平八郎・元帥の晩年』(朝日新聞社、九〇年三月刊)によると、麹町の自宅は古い昔のままで、板塀はポロボロで壁には紙が張って継ぎばぎしてあった。 昭和四年冬、カゼで東郷が寝込んだ時、家族が電気ヒーターを入れようとしたら 「炭火でたくさんだ」と一喝した。 9 晩年の東郷の生活は質素そのもの 電気スタンドの笠も古くてボロポロになると、菓子折りの包装リボンを代用して巻いてそのまま使っていた。 趣味は碁で、妻テツと碁を打って時間をつぶすことが多く、「フランスの老農夫」そのもので、庭木いじりも大好きだった。 長男・彪著『吾が父を語る』によると、亡くなった平八郎の部屋を整理していたら、机の引出しから小さい箱が出てきた。 開けてみると、糸と針が二、三本入っていた。 長い艦上生活で衣服は自ら裁縫する習慣が続いたのである。 また、東郷の艦上生活で留守中に妻が、時間を持て余しマッチの箱張りの内職をして収入を得ていたという美談調の記事が新聞に掲載されたが、東郷はその記事をみて『自分は、お上から十分な俸給を頂いて、家族を困らせるようなことはしたことがな い。 内職をさせたとは侮辱するもの』と激怒した、という。 彪は「五十年間で父の怒った顔をみたのは、この時だけだ」と回想している。 - , , , , , , , , , , , , , ,.

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聖将・東郷平八郎の真実・日本海海戦で完全勝利したが、太平洋戦争での『大鑑巨砲主義』(戦艦大和)の敗北を作った

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日本海海戦で完全勝利したが、太平洋戦争での『大鑑巨砲主義』(戦艦大和) の敗北を作った東郷平八郎の真実 前坂 俊之(静岡県立大学教授 ) 東郷平八郎連合艦隊司令長官は世界的週刊誌『タイム』誌の表紙を飾った最初の日本人である。 明治三八年(一九〇五)五月、日本海海戦で東郷の率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅したことで、日露戦争に勝利した極東アジアの小国・日本は一挙に西欧列強の仲間入りを果たした。 「アドミラル・トーゴー」の名は「東洋のネルソン」として世界に響き渡った。 東郷平八郎は弘化四年(一八四八)一月、薩摩国鹿児島郡(現・鹿児島市加治屋町)で薩摩藩士・吉左衝門の三男として生まれた。 同町は西郷隆盛、大久保利通、大山巌ら維新の志士やリーダー多数が輩出した所で、四歳年下の山本権兵衛も近所の生まれで幼なじみである。 慶応三年(一八六七)六月、東郷は分家して一家を興した。 戊辰戦争では春日艦に乗組んで、東北や函館に出征して功を上げ、明治四年から七年間、英国に留学し海事を治めて近代海軍の姿を学んだ。 明治十一年(一八七八)帰国後に中尉に任官し、海江田テツと結婚する。 この時、東郷三二歳でテツは十七歳。 日清戦争では浪速艦長として豊島沖海戦に参加。 「高陞号」撃沈事件で一躍、世界的にその名を知られた。 戦争末期に少将に進んで常備艦隊司令官となり、台湾にも出動した。 三八歳から四十歳にかけては一時体調を崩し、病気療養が続いた。 2 予備役寸前を山本権兵衛に救われ、大抜擢 その後、海軍大学校長、佐世保鎮守府、舞鶴鎮守府の各司令長官を歴任するなどして明治三十七年、五十六歳で大将に昇進した。 海軍内ではどちらかといえば、傍流を歩み、特に病気勝ちで目立たない地味な存在といってよかった。 海軍が大整理を行った際、予備役となる寸前を「東郷はもう少し様子をみましょう」との海軍大臣・山本権兵衛が一言で、あやうく救われたのは有名な話である。 日露開戦四カ月前に連合艦隊司令長官に、当時の常備艦隊司令長官の日高壮之丞ではなく、大方の予想をくつがえして舞鶴司令長官だった東郷が大抜擢された時、周囲に大きな驚きを持って迎えられた。 3 明治天皇に彼は『運が強い男だから』 心配した明治天皇に対して山本権兵衛は「彼は運が強い男ですから」と答えた。 日高の健康が優れなかったこと、東郷の「高陞号」撃沈事件で見せた的確で周到な行動力、英国で身につけた国際海洋法の秀でた知識、独断専行型の日高と違い海軍軍令部との緊密一体となった作戦行動には東郷がうってつけであることなどが抜擢の理由であった。 東郷は日本海海戦でカリスマ的な指揮能力を発揮して、バルチック艦隊の通過コースを対馬海峡であると的確に予測して迎撃し、海戦では敵前での決死的な丁字戦法(敵前大回頭、東郷ターン)によって日本側の損害は最小に抑えてバルチック艦隊を全滅させた。 4 日本海海戦で完勝! 日本艦艇の損失は水雷艇三隻に対して、バルチック艦隊は撃沈された戦艦、巡洋艦十六隻、撃破自沈五隻、捕獲六隻など、ウラジオストックに入港できたものは合計五〇隻からなるバルチック艦隊で巡洋艦などわずか三隻しかなかった。 ロシア側の戦死者約五千人、捕虜約六千人に対して日本側戦死者百十人という世界の海戦史上にもない空前絶後の勝利をおさめた。 この結果、東郷は「海戦の神様」、「聖将・東郷」「強運の提督」としてあがめられ『東郷神話』が生まれる。 国民的英雄となった東郷は以後 軍令部長(四年間)を歴任、日露戦争の偉勲によ り功一級金鵄勲章、大勲位菊花大褒章を受け四十年九月には「男爵』「子爵」を飛ばして一挙に伯爵を授けられた。 軍人出身で大臣、総理大臣などを歴任した山県有朋、大山巌らは公爵、侯爵を授けられたが、政治経験のない軍人一筋では最高位であった。 大正二年(一九一三)四月に元帥に列せられ、翌三年、東宮御学問所総裁となり以後、七年間にわたって皇太子(昭和天皇)の教育の担当となった。 皇室の藩屏となる華族制度そのものからみても象徴的な地位についたのである。 5 「軍神・東郷神話」を作る この学問所で幹事を務めていたのが小笠原長生(海軍大佐、その後子爵)で、小笠原は「東郷の副官」として東郷の「偉勲」のみを強調した伝記を何冊も書き続けて東郷の英雄、神格化を熱心に進めていった。 日本海海戦の稀に見る勝利は世界にも日本にも計り知れない影響を与えた。 以後の世界の海軍戦略を一新させ、戦艦の巨砲同士の打ち合いで勝敗が決まる「大艦巨砲主義の時代の幕を開き、世界的な軍艦建造競争が始まった。 「勝って、カブトの緒を締めよ」とは連合艦隊解散式での東郷の自戒の訓示だが、結局、この完勝に東郷も海軍も眼がくらみ、以後の海軍戦略が航空母艦や航空機が中心へと移っていく中で、あくまで日本海海戦を金科玉条として、艦隊決戦で勝負をつける時代遅れの戦法に固執していく。 東郷神話の成功のワナに陥り、その後の海軍戦略の変化の見通しを誤り、日本を敗北に導くタネとなった。 6 海軍内で絶対、神格化 日露戦争後の東郷は神様扱いであった。 元帥として君臨し、長生きして昭和に入ると、元老は西園寺公望ただ一人となるが、東郷も海軍の最長老、元老役として海軍,軍部内でも絶対的な権威と化して、誰も反対できない雰囲気を作った。 昭和五年(一九三〇)一月のロンドン海軍軍縮条約の際、東郷は八十三歳となっていたが、艦隊派のシンボルとして、条約批准の反対にまわった。 同会議に財部彪全権(海相)が外交上慣例化していた夫人同伴で出席したことに東郷は腹を立て「軍縮会議は戦争と同じじゃ。 そこにカカアなど連れて行きおって!」と条約派に息巻いた。 日本の方針は「補助艦全体の総トン数、大型巡洋艦ともに対米比率を七割とする」というものだったが、艦隊派の加藤寛治軍令部長らが猛反対、政府が米比率を「六割九分七厘五毛」で妥協したのにも、東郷は「七割が受け入れられなければ、断固引揚げるのみ」との強硬な指示を出した。 7 ロンドン軍縮会議で統帥権干犯、老害の極みに 東郷を頂点とした艦隊派のグループは条約調印に強硬な反対論を並べて加藤軍令部長が、いわゆる「統帥権干犯問題」を引き起した。 昭和九年 一九三四 五月、東郷は八十六歳で亡くなるが,それに先だって侯爵を陞爵した。 大艦巨砲時代のシンボルとして無用の長物となった巨大戦艦「大和」の建設着工が始まったのはそれから三年後のことである。 日露戦争の成功と、太平洋戦争の失敗は東郷の功罪にぴったりと重なる。 東郷の輝かしき日本海海戦の前半生の勝利と比べ、その晩年は艦隊派に担ぎ出されて頑迷固陋となり誤った判断をしてしまう、まさに老害といってよい存在と化した。 ところで、最新の研究では日本海海戦での輝かしい『東郷神話』も事実とは異なるっていることが次々に明るみに出ている。 8 東郷神話の真実が明かになる 最近明らかになった『極秘明治三十七八年海戦史』や、それに基づく野村実著『日本海海戦の真実』講談社新書(一九九九年刊)、田中宏己著『東郷平八郎』筑摩新書 一九九九年刊 などの研究によると、バルチック艦隊のコースを対馬海峡ではなく一時、東郷も迷よいに迷って津軽海峡と予測して艦隊を北進する寸前であったこと。 丁字戦法そのものが東郷の決断や秋山真之作戦参謀の考案したものでもなく、山屋他人大佐(日本海海戦では『笠置』艦長)の発案を採用し、何度もリハーサルを重ねて失敗し四度目の実戦で成功したことなど、東郷神話のベールがはがされている。 「海軍の神様」、伯爵として頂点を極めた東郷の晩年は政治の世界を離れると、「足るを知る」を信条として貫いており、若い時とは違ってカネに不自由はなかったが、生活は質素そのものだった。 佐藤国雄著『東郷平八郎・元帥の晩年』(朝日新聞社、九〇年三月刊)によると、麹町の自宅は古い昔のままで、板塀はポロボロで壁には紙が張って継ぎばぎしてあった。 昭和四年冬、カゼで東郷が寝込んだ時、家族が電気ヒーターを入れようとしたら 「炭火でたくさんだ」と一喝した。 9 晩年の東郷の生活は質素そのもの 電気スタンドの笠も古くてボロポロになると、菓子折りの包装リボンを代用して巻いてそのまま使っていた。 趣味は碁で、妻テツと碁を打って時間をつぶすことが多く、「フランスの老農夫」そのもので、庭木いじりも大好きだった。 長男・彪著『吾が父を語る』によると、亡くなった平八郎の部屋を整理していたら、机の引出しから小さい箱が出てきた。 開けてみると、糸と針が二、三本入っていた。 長い艦上生活で衣服は自ら裁縫する習慣が続いたのである。 また、東郷の艦上生活で留守中に妻が、時間を持て余しマッチの箱張りの内職をして収入を得ていたという美談調の記事が新聞に掲載されたが、東郷はその記事をみて『自分は、お上から十分な俸給を頂いて、家族を困らせるようなことはしたことがな い。 内職をさせたとは侮辱するもの』と激怒した、という。 彪は「五十年間で父の怒った顔をみたのは、この時だけだ」と回想している。 - , , , , , , , , , , , , , ,.

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企業の話)大鑑巨砲時代の終焉。これからは、収益性の高い機動力のあるチーム及びチーム連携による強力な組織の時代:吉政忠志のベンチャービジネス千里眼:オルタナティブ・ブログ

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その節目とあってか、いくつかのメディアで大和を題材にした記事を見かけましたが、その一つにこんなのがありました。 世界最大の46センチ主砲が敵戦艦に火を噴くことはなく、この最後の艦隊出撃で、撃墜したとされる敵機はわずか3機だった。 出典: 毎日新聞の記事では、宗教家の言葉を引く形で「大艦巨砲主義の誇大妄想」とそれが生んだ「浮沈戦艦への信仰」と、批判的・否定的なトーンで伝えています。 NHKでも過去に歴史ドキュメンタリー番組「その時歴史が動いた」で『戦艦大和沈没 大艦巨砲主義の悲劇』を放映していましたし、ざっと例を挙げられるだけでも、戦艦大和を大艦巨砲主義の象徴として批判的に扱うメディアは多いようです。 このように、 「第二次大戦では強力な戦艦を主力とする大艦巨砲主義を空母機動部隊を中心とする航空主兵思想が真珠湾攻撃、マレー沖海戦で打ち破ったが、初戦の勝利に囚われた日本は大艦巨砲主義に固執し、逆に初戦の失敗から学んだアメリカは航空戦力で盛り返した」のような説明をする本や人はよく見られますね。 真珠湾攻撃で日本海軍機の攻撃を受ける米戦艦(ウィキメディア・コモンズ) ところで、この大艦巨砲主義という言葉。 大雑把に言えば、敵を撃破するために大きな戦艦に巨砲を積むという思想ですが、現在でも時代遅れの考えを批判する際に使われています。 近年、メディアでどういう風に使われたのか、ちょっと見てみましょう。 「安倍政権の原発政策は、時代遅れの大艦巨砲主義」(マスコミ市民,2013年8月)• 「生産部門におもねる豊田家--復活する「大艦巨砲主義」 」(選択,2011年4月)• 「時代錯誤の「大艦巨砲主義」か「日の丸」製造業の大再編」 月刊ベルダ,1999年10月) 製造業に関わる批判例が多いですね。 重厚長大な製造業イメージが、大きいフネに巨砲を載せる大艦巨砲主義と重ねて見えるので、このような批判的意味合いを持った比喩表現として使われているのだと思います。 いずれにしても、現代において「大艦巨砲主義」とは、敗北のイメージを持った、ネガティブな言葉と言えるでしょう。 大艦巨砲主義ニッポン。 戦艦何隻建造した? では、第二次大戦中の日本はどのくらい大艦巨砲主義に毒されていたのでしょうか? 第一次大戦後、列強各国は重い財政負担となっていた建艦競争を抑えるため、海軍軍縮条約を結び各国の戦艦建造・保有に制限をかけ、軍拡競争に歯止めをかけました。 この軍縮条約以前の時代こそ、大艦巨砲主義と言える思想が世界に蔓延っていたと言っても良いかもしれません。 この海軍軍縮条約は1936年末に失効を迎えたため、以降は自国の好きなだけ戦艦を建造出来ます。 大艦巨砲主義の日本は、きっとどこよりも大量に建造している事でしょう。 軍縮条約失効以降に建造された戦艦を、日米英の3カ国で比較しました。 海軍軍縮条約失効以降の日米英戦艦建造一覧 ……あれ? 建造数・進水数共に日本がブッちぎりで少ないですね。 アメリカは12隻起工して10隻進水、イギリスは6隻起工して全て進水させているのに対し、日本は大和型を4隻起工して大和と武蔵の2隻進水、信濃1隻は空母に転用、もう1隻は建造中止で解体されています。 戦艦として進水した数で見ると、日米英で2:10:6です。 アメリカの5分の1、イギリスの3分の1の数です。 さらに言えばイタリアが建造した戦艦(3隻)より日本の建造数は少なく、列強国の中で最低の数です。 こうして各国の戦艦建造実績を比較すると、日本が戦艦に偏重していた訳ではない事が分かります。 もっとも、これは多国間の比較であり、工業力の差が現れただけ、という見方もあるかもしれません。 しかしながら、開戦に先立つ1941年11月には大和型戦艦3番艦、4番艦の建造は中止され、後に3番艦は空母に変更されている事からも、開戦準備の段階で戦艦以外の艦艇が優先されているのが分かります。 よく見られる言説に「真珠湾攻撃やマレー沖海戦で航空機が戦艦を撃沈し、大艦巨砲主義の時代が終わった」というものがありますが、それらの戦闘が行われる1ヶ月前に日本はこれ以上戦艦を建造しない方針が取られているのです。 太平洋戦争開戦時、日本は戦艦を10隻保有していましたが(大和型2隻は戦中に就役)、いずれも軍縮条約以前に建造された戦艦で、最も新しい戦艦陸奥でも就役から20年が経過していました。 中でも低速で威力の劣る35. 6センチ(14インチ)砲搭載の扶桑型・伊勢型の4隻は、戦艦戦力として期待されておらず、伊勢型2隻は航空機を搭載する航空戦艦に改装され、扶桑型2隻は航空戦艦あるいは空母への改装が計画されるほどでした。 航空戦艦改装後の伊勢。 後部の主砲が撤去されてる(ウィキメディア・コモンズより) このように戦力価値の低い戦艦は航空戦艦・空母に転用が計画されていた訳ですが、このような方針を大艦巨砲主義を掲げる組織が行うでしょうか? 空母4隻を失ったミッドウェー海戦後も空母や補助艦艇の建造はされますが、戦艦建造は一顧だにされません。 対して、イギリスは戦争が終わっても戦艦を作り続けましたし、アメリカに至っては1991年の湾岸戦争でも戦艦を出撃させてますが、別に大艦巨砲主義と呼ばれる事はありません。 何かヘンですよね? 湾岸戦争でイラク軍を砲撃する戦艦ミズーリ(ウィキメディア・コモンズより) 「巨大」なモノへの信仰から大和を造った? 日本海軍にとっての戦艦の扱いがこのような状況にも関わらず、なぜ日本海軍は大艦巨砲主義だと言われていたのでしょうか? 大和型が世界最大の3連装46センチ(18インチ)砲を搭載していた世界最大の戦艦であった事、つまり「巨大」であった事が考えられます。 例えば、先の毎日新聞の記事中では、こんな事が書かれています。 「大国主命、奈良の大仏……。 古来、日本人は『巨大なるもの』への信仰がある」。 宗教学者の山折さんは説明する。 ただし、もちろん、巨大戦艦は神仏などではなかった。 出典: このように、日本人の巨大さそのものへの信仰が大和を生んだとする言説もちょくちょく見られます。 しかし、 失敗の原因を民族性に求める言説はあまりに大雑把過ぎます。 このような言説に対し、航空主兵の尖兵である航空自衛隊教育集団の澄川2等空佐は、大和型建造の目的について以下のように説明し反論しています。 「強力な攻撃力を追求することであって、単なる巨大さへの信奉では決してない。 大和級の設計概念は、小さく造る事である。 (中略)18インチというという世界最大の艦砲を9門も搭載し、その18インチ砲に対抗しうる防御力を有しながらも、全体が当初の考えどおりコンパクトな艦体にまとめられたというのが大和級戦艦の特徴である」 出典:澄川浩「日本海軍と大艦巨砲主義」朋友26巻4号 大和型は強力な攻撃力と防御力を小さな艦に収めた事を特徴としており、大きい事それ自体は目的では無い、と否定しています。 考えてみれば当たり前の話で、大きいとコストもかかれば燃費も悪くなります。 大きさに信仰なんてものは関係なく、当時の状況と判断と技術がそうさせた結果であり、信仰にその原因を求めるのは問題を単純化して見ようとする悪い例です。 しかし、大和型を建造させた判断とはどのようなものだったのでしょうか? そして何故、結果的とは言え世界最大になったのでしょうか。 大和型建造に至るまでの日本海軍が置かれた状況と、判断を見てみましょう。 なぜ大和は建造された? 当時の状況と判断について、先に挙げた澄川2等空佐が、空自の部内誌で以下のようにまとめています。 演習や実験においていかに航空攻撃力がその可能性を見いだしたとしても、実戦においてその威力を示すまではどのような用兵者もその価値を信じ切るには至らないというのが本当のところだと考える。 戦艦無用論がいかに強く提唱されても国の命運を賭けてまで、戦艦の砲戦力を全廃することなど到底採りうる方策ではなかったというのが現実である。 出典:澄川浩「日本海軍と大艦巨砲主義」朋友26巻4号 大和型以前の日本戦艦、つまり建造から20年近く経過した旧式戦艦では、海軍軍縮条約失効後に建造される他国の新戦艦に対抗出来ませんでした。 しかも、大和型が計画された当時はまだ、澄川2佐が言うように、航空機による戦艦撃破は一度も実証されていません。 実験では撃破の可能性が示唆されていたものの、停泊中の戦艦に対しては1940年のタラント空襲と1941年の真珠湾攻撃、作戦行動中の戦艦に対しては1941年のマレー沖海戦が起きるまで実例がありませんでした。 このため、対抗上新戦艦が必要だったのです。 サウスダコタ級戦艦マサチューセッツ(中央、ウィキメディア・コモンズより) 大和型が巨砲を持って生まれたのも理由があります。 当時の日本の国力では空母建造と並行して戦艦を揃えるのは不可能なため、建造出来る戦艦の数は限られました。 数の劣位を、質でなんとか埋めようとしていたのです。 戦艦は最も大量生産からかけ離れた兵器で、アメリカでも戦艦を同じ海域に大量投入する事は難しかったため、この考えはそれなりに説得力がありました。 大和型が活躍出来なかったのは何故? しかしながら、大和型建造が大艦巨砲主義によるものではないとしても、大和型はさして戦果を挙げていません。 この事実は、大艦巨砲主義の欠陥を説明する上で、よく根拠として出されているものです。 トラック泊地に投錨したままの状態が多かった大和は、「大和ホテル」とアダ名されたと言われています。 ソロモン諸島やニューギニアで熾烈な海戦が行われ、アメリカの新戦艦サウスダコタ、ワシントンに戦艦霧島が撃沈される戦艦同士の砲撃戦も発生していましたが、大和はそれに加わりませんでした。 この原因として、城西国際大学の森雅雄准教授はいくつかの説を挙げています。 大和には聯合艦隊司令部が置かれているので容易に移動できない• 燃料の不足(宇垣纏第一戦隊司令、淵田美津雄航空参謀ら)• 怯懦(きょうだ)のせい(御田俊一) このように推測出来る理由は複数ありますが、だからと言って戦艦が活躍出来なかった訳ではありません。 森准教授・澄川2佐共に、日本が保有する戦艦で最も古い金剛型4隻が忙しく太平洋を行き来し、戦艦同士の戦闘から陸上砲撃、艦隊護衛と幅広い任務で活躍を見せている事を指摘しています。 最古参の金剛型でこれですから、最新の大和型が活躍出来ない道理は無いのですが、結局のところ、日本海軍は大和型に活躍の場を与えることが出来なかったのです。 これは上述の理由の通り、大艦巨砲主義に由来するものではありませんでした。 国民が望んだ大艦巨砲主義敗北論 さて、ここまでで日本海軍は大艦巨砲主義のように凝り固まった思想で大和を建造したのではなく、むしろ航空戦力への投資に重点を置きつつ、それなりの妥当性を持って大和の建造に臨んだ事がご理解頂けたと思います。 しかしこうなると、なんで大艦巨砲主義を信奉した日本海軍は敗れた、という言説がこれまでまかり通って来たのでしょうか? このような戦後の「大艦巨砲主義批判」について、森准教授は「この批判はイデオロギーであると断じる」と結論付けています。 森准教授は最も早い1949年に出された日米戦回顧録である高木惣吉「太平洋海戦史」に着目し、その中に書かれた日本が初戦の勝利に驕って航空軍備拡張に立ち遅れたという記述が、「太平洋海戦史」の1年半後に出版された淵田美津雄・奥宮正武「ミッドウェー」で「戦艦中心主義の時代錯誤」が加えられ、それがベストセラーとなった事を指摘しています。 「大艦巨砲主義」を理由とした敗戦は、物量に負けたという実感的な理由よりも、「より周到であり反省の契機もあって、より上等で良心的で服従するに足りるように見える」(森准教授)ので、国民に受け入れられたのです。 一方、澄川2佐はもっと容赦の無い結論を導いています。 戦前の戦争計画では、侵攻してくるアメリカ海軍の戦力を削りつつ、最終的に日本の委任統治領である南洋諸島で決戦を行って撃滅する想定でした(漸減作戦)。 戦中の日本海軍はその為に航空戦力・空母戦力の整備に注力し、1944年にほぼ企図した通りにマリアナ沖海戦が展開され、その結果日本は一方的に敗北しました。 このように澄川2佐は、日本海軍の想定通りに進んだけど負けた事を指摘しており、アメリカに戦争を挑んだ事自体が敗因だと結論付けています。 対アメリカを想定して戦争準備してきたのに、アメリカに戦争を挑んだ事自体が敗因だとすると、大艦巨砲主義・航空主兵思想以前の問題です。 大和建造が間違いだったのではなく、日本人が選んだ道である対アメリカ戦争そのものが間違っていたという結論は、日本人にとって、残酷で不都合な真実でもありました。 敗戦の理由を知りたがっていた日本人にとって、「航空戦力を軽んじた大艦巨砲主義」というのは、自分が傷つかない心地よい敗因だったのです。 戦後に「大艦巨砲主義批判」を行った人も同様で、批判者に南雲艦隊の源田実航空参謀や、先述の淵田・奥宮両氏のような航空参謀出身者が多い事からもそれが伺えます。 敗因を大艦巨砲主義のせいにすれば、航空参謀としての自分の責任を回避でき、自分は傷つかずに済みます。 戦艦大和(ウィキメディア・コモンズより) 間違った戦争のおかげで大した活躍も出来ず沈んだ大和は、日本人にとって「間違った選択」の象徴として祀り上げるには都合の良い存在だったのです。 本当はもっと根本部分で間違えていたにも関わらず、です。 日本国民にとって、なんとも歯がゆい結論に至ってしまいました。 しかし、戦後70年を経た今、これを読んでいるほとんどの方は、大戦の問題からは自由なはずです。 そろそろ本当の敗因を見つめ直し、誤った選択を繰り返さないために考えてみるべきではないでしょうか。 そして、大艦巨砲主義の象徴のような不名誉かつ誤った扱いから、彼女らを解放してあげてもいいと思うのですが……。

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