正義 意味。 タロット意味ー正義(正位置)

仁義(ジンギ)とは

正義 意味

せい-ぎ【正義】 1 [荀子正名] 正しいすじみち。 人がふみ行うべき正しい道。 プラトンは国家の各成員がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和があることを正義とし、アリストテレスは能力に応じた公平な分配を正義とした。 近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由主義的民主主義社会は各人の法的な平等を実現した。 これを単に形式的なものと見るマルクス主義は、真の正義は社会主義によって初めて実現されると主張する。 現代ではロールズが社会契約説に基づき、基本的自由と不平等の是正とを軸とした「公正としての正義」を提唱。 正義は、倫理学の理論や政治哲学にとっての基本的な概念として、公正(または公平)の概念や<平等(equality)>、とりわけ平等な人間を平等に扱うという法的命令と関連している。 アリストテレス(C. Aristotle, 384-322BC)以来、 1 誰が何を得るべきかという問題に関する分配の正義と、 2 社会問題処理における個人の取り扱い(とりわけ違反についての処罰)に関する矯正的な(あるいは減刑の)正義とを区別するのが慣例的である。 分配の正義の概念は、社会的正義として現代の社会哲学と政治学において重要である。 分配の正義の近代理論は、アメリカの哲学者ロウルズ(J. Rawls)によって A Theory of Justice, 1971 『正義論』において提唱されたが、その中で彼は平等の問題を論ずると同時に、<個人主義(individualism)>をも擁護した。 彼の一般的な〔分配と正義の〕定義は、「自由とチャンス、収入と富、自尊のための基盤といったあらゆる社会的価値は、一部のあるいはすべてのこれらの価値の不平等な分配があらゆる人の利益になるのでない限り、平等に分配されるべきである」(1971,p. 62)というものである。 2つの例を挙げることができる。 鉄砲の所有を禁じる法律は、あらゆる人の利益になりうる。 一方で、社会は生命の平等な安全を維持するために、警察に鉄砲の不平等な分配をするのである。 第二に、一定の年齢以下の若者にオートバイの運転を禁じるのは、「あらゆる人の利益」となりうる。 これらの例では、個人の自由と社会的正義との間に緊張がある。 自由を強調する正義観は、ノジック(R. Nozick)によって、Anarcy, State, and Utopia, 1974『アナーキー、国家、ユートピア』において提示された。 その中では、私有財産、個人の権利や自己決定権を支持する議論がなされている。 ノジックにとって、国家はできるだけ小さいものであるべきで、個人的自由の享受を妨害しない限りで正当化されうる。 (『新しい世紀の社会学中辞典』ミネルヴァ書房、2005年06月10日、pp. かれは「正義」を「国法に従うこと」と名言している。 しかし、その説得が成功しなかった場合には、非合法活動が許容されるのではなく、あくまでも「国法の遵守」に踏み止まらねばならぬ。 これが、ソクラテスの基本的立場である。 だが、更に、ソクラテスは、正しい人はいかなる場合でも正しい行為を為すべきである、という立場をとった。 それ故、相手から不正を蒙っても、仕返しに不正を加えてはならない。 これらの理由により、かれは脱獄を拒否して刑死したのであった。 すなわち、政治家は国民の善を配慮し、兵士は国を守り、農民は穀物を生産することが、正義の基礎であある。 各人が、余所事に手を出さず、己に本来的な使命の遂行に専念するとき、国家は調和的になり、その活力を最大限に発揮し正義を実現する。 同じ構造は一個人の正義につても妥当する。 これに対し、それぞれの部分が本来の使命を全うし、理性が命令し、気概がこれを補佐し、欲望がこれに服従するとき、調和的な力強い、正義の人が実現されるのである。 その意味は、すべての徳は個人における行為能力であるが、これが他者関係において活動するとき正義の性格を帯びる、ということだ。 これが広い意味での正義である。 他方、狭い意味での正義は「平等(ison)」であるが、これが後世に決定的影響を与えた部分である。 アリストテレスは平等には二つの意味がある、と言う。 一つは算術的平等だが、これが適用されるのは、各人にはそれぞれの価値に応じて財貨(富、名誉、地位など)を配分すべし、という財の配分の領域においてである。 ここにおける平等とは、各人における価値(能力)とそれに応じた財貨の取得量の比率が等しい、ということに他ならない。 これをと言う。 これは冷厳な能力主義の正義論で、以降長らくヨーロッパの思想に影響を及ぼしたものである。 それ以上に、かれらは正義についての特別な理論を展開していない。 その神の働きかけとは、キリストがあらゆる人の罪を背負って犠牲となり、それによって人を己の罪に相応しい罰から解放した、その行為のことである。 この神の身代わりにより、人はあたかも正しい者であるかの如くに扱われうることとなったのである。 〔岩田靖夫〕 (『岩波哲学・思想事典』岩波書店、1998年3月18日、pp. このようなトマスの正義論は、現代に至るまでカトリック的社会理論の骨子となっている。 (『岩波哲学・思想事典』岩波書店、1998年3月18日、p. そこで人々は共倒れにならないよう相互契約を結んで公権力を成立させるように強いられるが、その相互契約を守ることに正義の本質があるとみなされるのである。 そして、このようなヒュームの正義観は、正義を自然的自由の社会経済体制を支える大黒柱とみなすA. (『岩波哲学・思想事典』岩波書店、1998年3月18日、pp. ロールズはこの書で、最大多数の最大幸福を根本規範とする功利主義では、個の権利や自由が十分保証されえないと批判しつつ、互いに相手や自分の社会的地位に関して無知のヴェールにおおわれた人々の合意によって採択されうる正義の二大原理を次のように呈示した。 すなわちそれは、各自が最大限に平等な政治的・思想的自由を持つことの保証(第一原理)、および、社会的経済的不平等は、それが最も不遇な人々の利益を最大化するよう、また機会均等の原則のもとですべての人々に開かれた職務や地位に付属するよう、配備し直されねばならない(第二原理 というものである。 こうしたロールズの考えは、平等主義的なリベラリズムの正義論と呼びうるものであり、ロールズ自らがカントとの親近性を表明している。 こうした立場からノージックは、ロールズが重視した分配的正義を実現困難とみなしたが、その発想はロールズと等しく社会契約説的なものであった。 このような発想に対し、1980年代に入ると、コミュニタリアン(共同体論者)と呼ばれる一群の思想家たちが異議を唱える。 まず、サンデルやC. 故に、そうした個人の権利実現を中心とした正義観ではなく、共同体の善や人間の責任や責務を中心に正義が論ぜられるべきと彼らは主張する。 〔山脇直司〕 〔文献〕岩田靖夫『ソクラテス』勁草書房 、1995;田中美知太郎『プラトンIV・政治理論』岩波書店、1984;岩田靖夫『アリストテレスの倫理思想』岩波書店、1985;ツィンマリ(山我哲雄訳)『旧約聖書の世界観』教文館、1990;荒井献他『総説新約聖書』日本キリスト教団出版局、1981;山脇直司『ヨーロッパ社会思想史』東京大学出版会、1992;W. Kymlicka, Contemporary Political Philosophy, 1990; S. Mullhall and A. Swift, Liberals and Communitarians, 1992. (『岩波哲学・思想事典』岩波書店、1998年3月18日、p. プラトンは『国家』において、理性・気概・情欲という魂の3部分はそれぞれ一定の役割を果たしてその完全性を得るべきであるとした。 そしてこれら四つの徳はさらに政治の領域、国家(polis)の構造においてその独自な意味が明らかにされた。 すなあwち、支配者階級、防護者階級、生産者階級がそれぞれ固有の徳としての「知恵」「勇気」「節制」をもって義務を果たし本文を守るとき、はじめて国家の生活は全体の完全な調和において「正義」の徳が実現されるとした。 「正義」はプラトンによれば「各自がその分を果たして互いに相侵さないこと」(ta heautou echein kai prattein)にほかならないものであった。 アリストテレスは正義を全体的正義と部分的正義とに分け、さらに後者を配分的正義と整調的正義とに分けた。 全体的正義とは、人々を正しい事がらの実践者とするような状態、人々のするところを正しいようにさせるだけでなく、人々をして願望させるような性質の状態(hexis)、つまり究極的な徳であり、徳の全体を意味している。 これに対し部分的正義とは、いろいろな徳のなかの一つとしての正義で、名誉や財貨などの配分における正義と、さまざまな相互の交渉において整調の役目を果たすべき正義がある。 対他的な点で正義はすべての徳のなかで「自分のものでない善」であるとも考えられ、他人への関連においてみられる限り正義であり、無条件的にこのような「状態」としてみられる限り徳であるとしている。 <本橋> (村治能就 編 『新装版 哲学用語辞典』 東京堂出版、1999年9月25日、pp. 233-234).

次の

「正義マン」とは?意味や使い方を説明

正義 意味

人間の社会的関係において実現されるべき究極的な価値。 善と同義に用いられることもあるが,善が主として人間の個人的態度にかかわる道徳的な価値をさすのに対して,正義は人間の対他的関係の規律にかかわる法的な価値をさす。 正義とは何かという問題については古来さまざまな解答が示されてきたが,一般的な価値ないし価値判断に関する見解と同様に,正義を客観的な実在と考える客観主義的,絶対主義的と,正義を主観的な確信と考える主観主義的,相対主義的正義論とに大別できよう。 法思想の領域では,だいたいにおいて論が前者に,が後者に属する。 従来の正義論のうちではやの見解が名高く,与えた影響も大きい。 アリストテレスは,道徳とは区別される正義 特殊的正義 について,と交換的正義 平均的正義,調整的正義とも訳される とを区別し,前者は公民としての各人の価値,功績に応じて名誉や財貨を配分することにおいて成立し,後者は私人としての各人の相互交渉から生じる利害を平均,調整することにおいて成立するとした。 キケロは,この配分的正義と同様な内容を「」という公式で表現した。 アリストテレスによると、名誉や財貨を各人の価値に比例して分配する配分的正義と、相互交渉において損害額と賠償額などを等しくする矯正的(整調的)正義とに分かれる。 また、国家の内で実現されるべき正義には自然的正義と人為的正義とがあり、前者が自然法、後者が実定法につながる。 国家権力の確立した社会では、実定法的正義は国家により定められるが、これは形式化・固定化されやすい。 そこで、各人がその価値に応じた配分を受け、基本的人権を中心とした諸権利を保障されるべしという社会的正義の要求が、社会主義思想などによって掲げられることになる。 正義は、古代ギリシア・ローマ時代以来、「各人に各人の分を」suumcuiqueという簡潔な標語で一般に言い表されてきた。 つまり、その人に相応するものをその人に帰属させることが正義であるとされるが、その人の当然の取り分をその人に与えるという「分配の正義」である場合もあれば、その人のなしたことに対して当然の報いを受けるという「応報の正義」である場合もある。 古代ギリシアのソフィスト派に属するトラシマコスが、正義を「強者の利益」と規定したのに対して、プラトンは「権力」と「権利」との区別を明確にして、「正義」を国家の備えるべき至高の徳とした。 アリストテレスは正義を「配分的正義」と「応報的正義」に分け、後の正義論に大きな影響を与えた。 正義というラテン語、およびそれと関連する西欧語には、「法」あるいは「権利」jus Rechtという語が含まれている。 したがって正義の問題は、法の問題と深い関係をもつものと考えられてきた。 しかもこの場合の「法」は、現実の実定法(成文法、不文法)に限らず、神法、自然法にも関係するから、正義の問題は、倫理学、法哲学、法学、政治哲学などにおいて従来広く論ぜられてきた。 正義は国家や社会制度の基準とされ、法において体現される場合もあれば、逆に悪法を批判する原理ともなりうるのである。 ところで、正義に関する議論は、具体的には平等の問題としていろいろと論ぜられてきた。 また法律上は、とくに「衡平(法)」equityの問題としてコモン・ロー(慣習法)の不備を補う原則として用いられている。 最近では正義の問題は、とくに「社会正義」social justiceという形で、現代世界における貧富の格差と社会経済的搾取や不平等、差別や人権侵害、政治的抑圧や軍事的暴力的対立と抗争などの諸問題を告発し、その解決を求める人道的人類的課題を呈示するものとして注目されている。 [飯坂良明].

次の

正義とは (セイギとは) [単語記事]

正義 意味

有名人の不倫スキャンダル、飲食店のアルバイト店員の悪ふざけ動画、大手企業の差別的な表現のCMなどに強い怒りや憎しみの感情が湧くのは… 知りもしない相手に非常に攻撃的な言葉を浴びせ、完膚なきまでに叩きのめさずにはいられなくなるのは、なぜ? 「間違ったことが許せない」「間違った人を徹底的に罰しなければならない」「私は正しく、相手が間違っているのだから、どんなひどい言葉をぶつけても構わない」そんな風に思うことは誰にもあるかもしれません。 しかし、それは「正義中毒」であると脳科学者の中野信子さんは言います。 では なぜ人のことを許せなくなるのか? それが起こる 脳の仕組みや「正義中毒」から自分を解放する方法についても中野さんに伺います。 c shutterstock. com 人は誰しも「許せない」が暴走する状態に、簡単に陥ってしまう性質を持っている 人の脳は、裏切り者や社会のルールから外れた人など、わ かりやすい攻撃対象を見つけ、罰することに快感を覚えるようにできています。 他人に「正義の制裁」を加えると、 脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出されます。 この快楽にはまってしまうと簡単には抜け出せなくなってしまい、罰する対象を常に探し求め、決して人を許せないようになるのです。 見方を変えると、誰かを許さないことで 自己を肯定したい、自分の正しさを認めてもらいたい、という欲求の裏返しにも見えます。 人を許せないという感情の発露には、脳の仕組みが大きく関わっています。 許せない自分を理解し、人をより許せるようになるためには、脳の仕組みを知っておくことが有用であり、これは、自分とは考えの異なる他者をどうすれば理解できるのかを考えることと同じです。 この「なぜ私は、許せないと思ってしまうのか」を知ることが穏やかに生きるヒントになります。 正義中毒の犠牲者となる人の基準は、国や地域によって大きく異なる。 日本の場合は? 日本人は、摩擦を恐れるあまり自分の主張を控え、集団の和を乱すことを極力回避する傾向の強い人たち。 災害の多さという地理的要因と閉鎖的環境により、日本では個人主義的な性質が強い集団よりも集団主義的要素が強い集団が生き延びやすかった背景があります。 江戸時代、国土をギリギリまで食料生産のために使っても、最大限維持できる人口は3000万人超のレベルで、ひとたび自然災害が起きてそのバランスが崩れると、あっという間に100万人単位の命が失われるような限界寸前の状況でした。 こうした状況では、良し悪しにかかわらず協働して困難を乗り切る集団主義的戦略が最適であり、集団の考え方に背くことが社会全体の深刻なピンチを招きかねないという思考を誰もが無意識に採用していました。 その負の側面として、異質なものを冷遇し、集団内に置いておけなくなった人間を排除する現象、あるいは他の集団に対する攻撃性が出てしまいやすい傾向にあります。 日本人が議論だと思ってしていることは、対立する二つの意見を吟味・検討してより良い結果を導くというものなどではなく、なぜかたいがい人格攻撃になっています。 特に 「正義中毒」の人々は、相手の主張のいいところを取り入れるということができません。 結局、正義が一つしかないという前提があるために、彼らの言説は、議論に昇華する余地を持たないのです。 c shutterstock. 実は惹かれるのも「互いが不一致だから」こそ。 つまり、合わないことこそが楽しかったはずなのです。 それが他人となればなおさらです。 たとえ夫婦であろうと、適切な距離や愛着のレベルが存在していて、そこに過不足があると、途端に不一致が粗として感じられるようになってしまいます。 これは異なる国、異なる文化でも同じかもしれません。 人は本来、自分の所属している集団以外を受け入れられず、攻撃するようにできている 自分の属する集団を守るために、 他の集団を叩く行為は正義であり、社会性を保つために必要な行為と認知されます。 攻撃すればするほど、ドーパミンによる快楽が得られるのでやめられなくなります。 自分たちの正義の基準にそぐわない人を正義を壊す「悪人」として叩く行為に、快感が生まれるようになっているのです。 バイアス(偏見)は脳の手抜き 人間は誰でも、どんなに気をつけていても、集団を形成すれば 仲間をその他の人より良いと感じる内集団バイアスをもつものです。 するとグループ外の集団に対しては、バカなどというレッテルを簡単に貼り付けてしまうのです。 グループ外の人々をあれこれ細かいことを考えず、一元的に処理できるのは、脳がかける労力をという観点からは、コストパフォーマンスが高い行為です。 個々に歴史や独自の考え方など様々な違いがあり、本来はその一人ひとりに対して丁寧に判断をしていく必要がありますが、このバイアスが働くと、手間をかけずに一刀両断できるのです。 ネット社会は確証バイアスを増長させる SNSでは似た者同士で繋がることが多く、自分と同じような思考をするグループから、自分が欲している情報だけを取り入れ、受け取るようになります。 日々、それを繰り返していると いつの間にか自分は正しい、自分の主義こそが正義だ、これが世の中の真実だと考えるように仕向けられてしまいます。 インターネットの世界でのビジネスでは、ネットユーザーたちに「クリックしてもらう」ためにユーザー全体の好みを分析した情報をベースに、個々の検索の傾向を収集し、それに合わせて関心のありそうな情報や広告を提供します。 ユーザー本人としては毎日ネットの世界と接し、新しい情報を補給しているつもりが、自分の嗜好をもとに構成された、自分好みの偏った情報が示されているだけなのです。 ネットで新しい知識を得た、新しいニュースを知った、と思っていても、実はそれはフィルターにかけられた情報ばかりで、自分の世界は非常に限定的であるかもしれないということを、意識する必要があるでしょう。 加齢が脳を保守化させる どのような相手に対しても共感的に振る舞い、人間として尊重し、認めていくという機能はとても高度なもので、前頭葉の眼窩前頭皮質という領域で行われています。 ここは25〜30歳くらいにならないと成熟せず、さらに、しっかり発達させるためには相応の刺激(教育)も必要になります。 また、重要な部分なのに、アルコール摂取や寝不足といった理由で簡単に機能が低下してしまいます。 老人が相手に有無を言わせず、自分の理論だけを信じて、直情径行的に行動してしまうのは、前頭葉の背外側前頭前野が衰え、脳が老化したから保守化したことが疑われるのです。 ここでいう保守化は、自分が元々もっていた思想の傾向が、より純化され、それ以外の意見は自動的に棄却される確証バイアスが働いて、さらに思考が硬直化していくイメージです。 c shutterstock. com 正義中毒の快感と苦悩 正義中毒にかかり他人を糾弾して快感を覚えている人も、ふと自分のほうが本当は間違っているのではないか、自分の正義に反する相手にバカという言葉をぶつける自分自身は「正しくない」のではないかなどと、自ら省みて傷つくような、矛盾した感情を抱くことがあります。 これも脳の機能の一部で、他者を攻撃することによって、脳も何らかのネガティブフィードバック(ここでは、怒りや攻撃性を誘発するホルモンの分泌を抑制すること)を受けることがあるのです。 相反する思いが脳に同居する科学的な理由の仮説として、ひとりの個人の中に多様な(時には矛盾する)価値観が共存することが、環境の急激な変化や新しい価値の台頭に一世代で対応できるという可能性を保持する基盤になるのだ、という解釈ができます。 こうすることによって、遺伝的な資質に頼らずとも環境の変化に鋭敏に合わせた生存戦略の速やかな変更ができるわけです。 「昔はよかった」は脳の衰えのサイン「正義中毒」から自分を解放する方法とは? 1. 「なぜ、許せないのか」を客観的に考える まずは自分が正義中毒状態になってしまっているのかどうかを、自分自身で把握できるようになることがとても重要です。 老けない脳をつくる ・慣れていることをやめて新しい体験をする いつもと違う道順で歩く。 いつものメニューやいつもの店を変えてみる。 ・不安定・過酷な環境に身を置く あえて不安定な、過酷な環境に身を置く。 マインドフルネスを実践する。 絶対に読まない本、関心のない本を手にとる。 ネットではあえて興味も関心もないキーワードを検索したり、普段は見ないようなニュースや記事を積極的に閲覧する。 ・安易なカテゴライズ、レッテル貼りに逃げない ・余裕を大切にする リソースを振り返る余裕がない自分の状況を少しは見直し、自分の頭で考える、前頭前野を働かせる余裕をつくる。 通勤時間を短くする。 食事や生活習慣で前頭前野を鍛える ・食事 前頭前野の働きをできるだけキープするためには、 オメガ3脂肪酸(不飽和脂肪酸)の積極的な摂取が必要。 サケ、マス、マグロ、イワシ、ブリ、サバ、サンマなど青魚と言われる魚の油や、カキなどの貝類、クルミなどのナッツ類、えごま油、亜麻仁油など。 ・睡眠 睡眠不足は、一時的でも習慣的でも脳にとっては良いものではありません。 隙間時間を見つけて 少しでも睡眠を稼ぐことがおすすめ。 「正義中毒」を乗り越えるには 人を許せない自分や他者、相手をバカにしてしまう自分や他者の愚かさを 人間なのだからしょうがないと諦めること。 常に 自分を客観的に見る習慣をつけていく(メタ認知)が鍵! *** さらに詳しい「正義中毒」という依存症については中野信子先生ので紹介されています。 脳科学者、医学博士、認知科学者 中野信子 1975年、東京都生まれ。 脳科学者、医学博士、認知科学者。 東京大学工学部応用化学科卒業。 東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。 フランス国立研究所ニューロスピンに博士研究員として勤務後、帰国。 脳や心理学をテーマに研究や執筆の活動を精力的に行う。 科学の視点から人間社会で起こりうる現象及び人物を読み解く語り口に定評がある。 現在、東日本国際大学教授。 著書に『世界で活躍する脳科学者が教える! 世界で通用する人がいつもやっていること』『脳はなんで気持ちいいことをやめられないの?』(アスコム)、『サイコパス』『不倫』(文藝春秋)、『シャーデンフロイデ』(幻冬舎)、『キレる!』(小学館)など多数。 また、テレビコメンテーターとしても活躍中。

次の