オルフェオ と エウリディーチェ。 オルフェオとエウリディーチェ

オペラ『オルフェオとエウリディーチェ』を聴いて、古事記の世界に思いを馳せる(川口 マーン 惠美)

オルフェオ と エウリディーチェ

作品の背景 [編集 ] で16世紀末から活動していた芸術家集団「」による、古代を再興させようとする試みの中で生み出された 作品である。 ペーリは、この作品で様式を駆使しており、また、『エウリディーチェ』の序文で、語りの部分における音高の変化と、歌の音程のある動きとが古代ギリシア演劇の理論において区別されていたことに触れ、語りと歌の中間をいく、古代ギリシアの人々が英雄詩の吟唱に用いていたと考えられるものを見いだそうとしたと述べている。 が据え置かれる中、歌唱声部は協和音と不協和音の間を行き来し、特に強調すべき音節(単語)に達した際には、協和音となるように留意した。 なお、ペーリは、リヌッチーニと組む形でに音楽劇《ダフネ》を制作・発表していたが、この作品の音楽は失われている。 台本 [編集 ] 台本は、に基づき、オッターヴィオ・リヌッチーニによって書かれた。 初演 [編集 ] 、フランス王との婚礼の催し物として、フィレンツェのにおいて初演された。 カッチーニとの関係 [編集 ] ペーリと同じくカメラータのメンバーであった、は、この作品の初演に際して、自らが関与している歌手が出演する場面ではペーリの楽曲を歌わせようとせず、カッチーニの手による楽曲に差し替えを行なった。 、ペーリとカッチーニは、改めてそれぞれの手による《エウリディーチェ》を公にしている。 登場人物 [編集 ]• 悲劇(または)• アルチェートロ()• ティルシ()• アミンタ()• (または)• ニンファと牧人の• 地獄の霊と神々の合唱 編成 [編集 ] 初演の際には、、、リラ・グランデ、などが用いられた。 あらすじ [編集 ] プロローグ [編集 ] 「悲劇」と名付けられた登場人物により、の形式で、王室の婚礼に対する祝福の言葉が歌われる。 トラーキアの野 [編集 ] オルフェオとエウリディーチェの婚礼の場面から始まる。 エウリディーチェが自らの幸福な気持ちを歌い、仲間のニンフたちともに去る。 オルフェオが友人たちと現れ、「過去の苦しみも今は幸せに変わった」と歌い、ティルシが婚礼の神を称えて「こよなく美しい星が清らかに燃える中で」と歌う。 しかし、ダフネーが現れて、エウリディーチェが毒蛇に脚を噛まれて死んだ、と告げる。 オルフェオはエウリディーチェを取り戻しに行く決意を固め、「私は泣かない、嘆かない」と歌う。 地獄 [編集 ] オルフェオは、女神ヴェーネレの導きで地獄の入口にたどり着く。 ヴェーネレは、「あとは自分の音楽の力で進むように」と告げて立ち去る。 オルヴェオが「私の涙に泣け、地獄の霊たちよ」と歌うと、地獄の王プルトーネは憤るが、オルフェオの歌声に感動したプロセルピナやカロンテに促され、地獄の掟を破り、オルフェオにエウリディーチェを返す決断をする。 トラキアの野 [編集 ] 友人たちがオルフェオの安否を気遣っていると、エウリディーチェを連れてオルフェオが現れる。 オルフェオは「私の歌に喜べ、緑の森よ」と歌い、エウリディーチェが続いて「この喜ばしい大気の中で」を歌う。 一同がオルフェオの音楽の素晴らしさを讃えて幕となる。 脚注 [編集 ].

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グルック オペラ 『オルフェオとエウリディーチェ』 中川隆

オルフェオ と エウリディーチェ

マリー・アントワネットの先生を務める 1714年、現在はドイツ、その当時は神聖ローマ帝国内だったバイエルンに生まれたグルックは、当時は同じ帝国内のプラハに学び、音楽家を志してからは、南はイタリアから北は英国まで広く、欧州を旅します。 旅のあと、ウィーンに腰を落ち着けたグルックは、マリア・テレジアが実質統治する宮廷の楽長の地位につきます。 ローマでは、教皇ベネディクト14世の御前で自作のオペラを上演して称号を賜わり、この時期からグルックの活躍は目覚ましいものとなります。 彼は、宮廷の子女にも音楽を教えたので、マリア・テレジアの娘であるマリア・アントーニア、フランスに輿入れしてマリー・アントワネットとなった彼女の先生でもあります。 アントワネットが優秀な音楽家だったのは、グルックの教育の賜物、と言われています。 グルックが、「オペラを改革」したという事実には、たくさんのことが含まれているため、すべてを書ききることは難しいのですが、そのころ、オペラの発祥の国であり、当時も最先端だったイタリアのオペラは、歌手の名人芸を披露することを第一に考えた作品が作り続けられていました。 その分、ドラマや音楽の流れが不自然だったのです。 それをグルックは、筋書きや音楽がより自然に流れるようにし、芝居の流れのためには、個々の歌手の超絶技巧の披露を制限さえするという方向性を打ち立てました。 オペラが、単なる歌手のテクニック披露の場ではなく、一つの音楽演劇として、意義のあるものにしたのが彼の「オペラ改革」の大きな部分です。 もちろん、これは拒絶反応も生み出し、マリー・アントワネットに従って移ったフランスでは、守旧的な作品を作り続ける作曲家との対立を、周囲にあおられています。 勇気をもって新たなシンプル・スタイルを提案 「オペラの改革」で、以後に続く本格的なオペラへの道筋をつけたグルックですが、オペラ「オルフェオとエウリディーチェ」の幕間のダンスの時に流れる「精霊の踊り」には、もう一つ特徴があります。 ハーモニーとも言いますが、他の音楽ジャンルでは、コード進行といわれる和音の種類が、とても少なく、単純なのです。 それ以前の作曲家、例えば、J. バッハやヘンデルなどのバロックの作曲家が、人間の感情の憂いや悲しみを表現するために、実に多彩な和音を駆使したのと、それは対照的でした。 特に重要とされる3つの和音・・・専門的には「1度の和音」「4度の和音」「5度の和音」といったりしますが・・・・で、曲のほとんどをつくっているのです。 結果、この曲は、非常にシンプルで、聞きやすいものとなり、また、ハーモニーが無駄に複雑でないために、その上に載っている旋律に集中することができます。 一見、たくさんの和音を駆使し、時にはネガティヴな感情を描くことさえ辞さなかったそれ以前のバロック音楽に対して、退歩のように見えますが、グルックなどの「古典派」の人々は、当時流行していたフリーメーソン思想(グルックも、モーツアルトもメンバーでした)の影響などもあり、音楽の調和を大事にしたのです。 そのもとに作られた音楽は、秩序があり、聞きやすく、誰にでも受け入れられる音楽となっていったのです。 それは、現代のクラシック以外のポピュラー音楽の遠い先祖、といってもよいかもしれません。 事実、バロック時代のバッハなどは、今そのまま聴くと難しさと時代の隔たりを感じますが、グルックとその同時代の人たちのいわゆる「古典派作品」は、古めかしさこそ感じるものの、現代人の我々にもすぐなじむ音楽的構造を持っているのです。 同時に、この時代の音楽は「ほがらかさ」を持っています。 ハイドンやモーツァルトの作品が、明るい「長調」の作品が多いことにもつながりますが、まだ芸術家は自我よりも、「人を楽しませること」を目的に作曲していた時代です。 「精霊の踊り」は、ヴァイオリンの名手にして作曲家でもあったF. クライスラーがヴァイオリン用に編曲したり、またはピアノ伴奏を伴うフルートで演奏されることも多く、グルックの作品の中で今日もっとも耳にする機会が多くなっています。 そのシンプルな響きに耳を傾けると、複雑なものを整理することによって「改革」を成し遂げた、グルックの卓越した美意識を感じることができます。 進化すると「複雑」になりかねない芸術の中にあって、勇気をもって新たなシンプル・スタイルを提案したグルックは、だから「改革者」と呼ばれているのです。 本田聖嗣 本田聖嗣プロフィール 私立麻布中学・高校卒業後、東京藝術大学器楽科ピアノ専攻を卒業。 在学中にパリ国立高等音楽院ピアノ科に合格、ピアノ科・室内楽科の両方でピルミ エ・ プリを受賞して卒業し、フランス高等音楽家資格を取得。 仏・伊などの数々の国際ピアノコンクールにおいて幾多の賞を受賞し、フランス及び東京を中心にソ ロ・室内楽の両面で活動を開始する。 オクタヴィアレコードより発売した2枚目CDは「レコード芸術」誌にて準特選盤を獲得。 演奏活動以外でも、ドラマ・映画などの音楽の作曲・演奏を担当したり、NHK-FM「リサイタル・ノヴァ」や、インターネットクラシックラジオ「OTTAVA」のプレゼンターを 務めるほか、テレビにも多数出演している。 日本演奏連盟会員。

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エウリディーチェとは

オルフェオ と エウリディーチェ

マリー・アントワネットの先生を務める 1714年、現在はドイツ、その当時は神聖ローマ帝国内だったバイエルンに生まれたグルックは、当時は同じ帝国内のプラハに学び、音楽家を志してからは、南はイタリアから北は英国まで広く、欧州を旅します。 旅のあと、ウィーンに腰を落ち着けたグルックは、マリア・テレジアが実質統治する宮廷の楽長の地位につきます。 ローマでは、教皇ベネディクト14世の御前で自作のオペラを上演して称号を賜わり、この時期からグルックの活躍は目覚ましいものとなります。 彼は、宮廷の子女にも音楽を教えたので、マリア・テレジアの娘であるマリア・アントーニア、フランスに輿入れしてマリー・アントワネットとなった彼女の先生でもあります。 アントワネットが優秀な音楽家だったのは、グルックの教育の賜物、と言われています。 グルックが、「オペラを改革」したという事実には、たくさんのことが含まれているため、すべてを書ききることは難しいのですが、そのころ、オペラの発祥の国であり、当時も最先端だったイタリアのオペラは、歌手の名人芸を披露することを第一に考えた作品が作り続けられていました。 その分、ドラマや音楽の流れが不自然だったのです。 それをグルックは、筋書きや音楽がより自然に流れるようにし、芝居の流れのためには、個々の歌手の超絶技巧の披露を制限さえするという方向性を打ち立てました。 オペラが、単なる歌手のテクニック披露の場ではなく、一つの音楽演劇として、意義のあるものにしたのが彼の「オペラ改革」の大きな部分です。 もちろん、これは拒絶反応も生み出し、マリー・アントワネットに従って移ったフランスでは、守旧的な作品を作り続ける作曲家との対立を、周囲にあおられています。 勇気をもって新たなシンプル・スタイルを提案 「オペラの改革」で、以後に続く本格的なオペラへの道筋をつけたグルックですが、オペラ「オルフェオとエウリディーチェ」の幕間のダンスの時に流れる「精霊の踊り」には、もう一つ特徴があります。 ハーモニーとも言いますが、他の音楽ジャンルでは、コード進行といわれる和音の種類が、とても少なく、単純なのです。 それ以前の作曲家、例えば、J. バッハやヘンデルなどのバロックの作曲家が、人間の感情の憂いや悲しみを表現するために、実に多彩な和音を駆使したのと、それは対照的でした。 特に重要とされる3つの和音・・・専門的には「1度の和音」「4度の和音」「5度の和音」といったりしますが・・・・で、曲のほとんどをつくっているのです。 結果、この曲は、非常にシンプルで、聞きやすいものとなり、また、ハーモニーが無駄に複雑でないために、その上に載っている旋律に集中することができます。 一見、たくさんの和音を駆使し、時にはネガティヴな感情を描くことさえ辞さなかったそれ以前のバロック音楽に対して、退歩のように見えますが、グルックなどの「古典派」の人々は、当時流行していたフリーメーソン思想(グルックも、モーツアルトもメンバーでした)の影響などもあり、音楽の調和を大事にしたのです。 そのもとに作られた音楽は、秩序があり、聞きやすく、誰にでも受け入れられる音楽となっていったのです。 それは、現代のクラシック以外のポピュラー音楽の遠い先祖、といってもよいかもしれません。 事実、バロック時代のバッハなどは、今そのまま聴くと難しさと時代の隔たりを感じますが、グルックとその同時代の人たちのいわゆる「古典派作品」は、古めかしさこそ感じるものの、現代人の我々にもすぐなじむ音楽的構造を持っているのです。 同時に、この時代の音楽は「ほがらかさ」を持っています。 ハイドンやモーツァルトの作品が、明るい「長調」の作品が多いことにもつながりますが、まだ芸術家は自我よりも、「人を楽しませること」を目的に作曲していた時代です。 「精霊の踊り」は、ヴァイオリンの名手にして作曲家でもあったF. クライスラーがヴァイオリン用に編曲したり、またはピアノ伴奏を伴うフルートで演奏されることも多く、グルックの作品の中で今日もっとも耳にする機会が多くなっています。 そのシンプルな響きに耳を傾けると、複雑なものを整理することによって「改革」を成し遂げた、グルックの卓越した美意識を感じることができます。 進化すると「複雑」になりかねない芸術の中にあって、勇気をもって新たなシンプル・スタイルを提案したグルックは、だから「改革者」と呼ばれているのです。 本田聖嗣 本田聖嗣プロフィール 私立麻布中学・高校卒業後、東京藝術大学器楽科ピアノ専攻を卒業。 在学中にパリ国立高等音楽院ピアノ科に合格、ピアノ科・室内楽科の両方でピルミ エ・ プリを受賞して卒業し、フランス高等音楽家資格を取得。 仏・伊などの数々の国際ピアノコンクールにおいて幾多の賞を受賞し、フランス及び東京を中心にソ ロ・室内楽の両面で活動を開始する。 オクタヴィアレコードより発売した2枚目CDは「レコード芸術」誌にて準特選盤を獲得。 演奏活動以外でも、ドラマ・映画などの音楽の作曲・演奏を担当したり、NHK-FM「リサイタル・ノヴァ」や、インターネットクラシックラジオ「OTTAVA」のプレゼンターを 務めるほか、テレビにも多数出演している。 日本演奏連盟会員。

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