ドッジ ライン。 ドッジ、経済安定9原則実施について声明 / クリック 20世紀

傾斜生産方式とドッジ・ライン

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1949年2月, 財政金融顧問として日したアメリカ合衆国のデトロイト銀行頭取ジョゼフ・M. の指導に基づき,同 1949年からが実施したの経済財政政策。 その基本線は,1949年3月7日ドッジが内外記者団とので発表したもので,1948年12月アメリカ政府が日本経済の安定と自立化を目的として GHQを通じて指令したを具体化することにあった。 このために,の実施,財政支出の削減,に基づく,1949年4月25日からの 1ドル=360円のの設定,復興金融公庫のと見返り資金勘定の,から集中生産方式への転換,封鎖経済体制から開放経済体制への移行などの諸施策が打ち出された。 その結果,金詰まりによる中小企業のや合理化による失業者のなどを,社会不安を激化させたが,ともかくを収束させ,日本経済を再建することができた。 彼の指導による一連の経済安定政策をドッジ・ラインないしドッジ・プランという。 彼は日本経済を、政府の補助金とくにインフレ下の生活物資への価格差補給金と、アメリカの援助との二つの竹馬にのった竹馬経済と見立て、この竹馬を切るのが自分の仕事であるとした。 それは大きくみて三つあった。 第一は、総予算(一般会計だけでなく特別会計も含めた)の均衡である。 このため、まずシャウプ勧告による直接税中心の税制が確立された。 第二は、あらゆる補助金を特別会計分も含めて表面化し、削減することであった。 価格差補給金は1949年度予算で大幅に整理削減され、51年度までに全廃された。 こうして49年度は超均衡(黒字)予算となる。 第三は、インフレの主原因であった日本銀行引受けの復興金融金庫債の発行を停止し、49年度以降債権の回収に専念させることによって、通貨の膨張を抑えた。 また、アメリカ援助物資の払下げ代金を新設の「見返り資金特別会計」に集中して、それを復金債の償還原資として運用する措置がとられた。 この結果、闇 やみ 物価は1949年初頭をピークに下落し、物価は急速に安定したが、さらにこれを国際物価にさや寄せさせるために、やがて1ドル=360円の単一為替 かわせ レートが設定された。 この為替レートは68年まで続いた。 こうしてドッジ・ラインはインフレ収束と黒字財政をもたらしたが、反面、49~50年にかけて深刻な不況=安定恐慌が発生し、国鉄の公社移行に伴う10万人首切りに関連したかのような下山 しもやま 事件・松川事件、民間企業の大量人員整理などによって民情は騒然となり、社会不安が起こった。 この恐慌の深刻化のさなか50年6月に朝鮮戦争が勃発 ぼっぱつ し、日本経済は新たな局面を迎えることになる。 [一杉哲也] 『中村隆英著『昭和経済史』(1986・岩波書店)』.

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【冷戦のはじまり、アメリカ対日政策の転換、ドッジ=ライン】 受験日本史まとめ 83 / 日本史 by Cogito

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ジョセフ・M・ドッジって何者? 引用 1891年、デトロイトの貧しいクエーカー教徒の芸術家の息子として生まれた。 大学には進学せず、高校卒業後、銀行にメッセンジャーとして勤め、事務や簿記をしていた。 1911年にミシガン州政府で証券と銀行の調整分野の仕事についた。 20年代初め、デトロイト銀行の株式売買担当員として迎え入れた。 大恐慌の最中、ドッジはデトロイトのいくつかの銀行の合併と再編成を支援し、33年にミシガン州で一番歴史のあるデトロイト貯蓄銀行の頭取兼取締役に就任した。 彼は、固い仕事をするまじめ一方の銀行家という評判を獲得している。 ドッジの指導のもとで、デトロイト貯蓄銀行は、資産額も36年の6000万ドルから、ドッジが総司令部の財政顧問に任命された48年には5億5000万ドルへと急成長した。 37年にデトロイト代表として復興金融公社の諮問委員会に加わり、翌38年にはシカゴ地区連邦準備銀行の総裁を六年の任期で務めた。 戦争中、ヘンリー・スチムソン陸軍長官の要請で、軍需契約委員会や価格調整委員会の委員長などいくつかの経済関係の役職についた。 ヨーロッパの戦争が終わると、ドッジはアメリカの世紀を築くための役回りを演じることになった。 ドイツの金融体制が崩壊した際、ドッジは軍政長官ルシアス・クレイ将軍の経済顧問代理となり、デフレ的な通貨供給量削減を計画し、一九四八年のベルリン封鎖を招いている。 47年から51年まで、マーシャル・プランの基金を扱う経済協力局(ECA)に対して財政・金融問題を諮問する委員会の委員でもあった。 貧しい家柄に育ったが、非凡な才能は努力によって、潰されることなく、銀行分野で開花した。 世間からその有能さを認められ、デトロイト銀行頭取やドイツ占領軍金融顧問等の職に就いた。 これが、ジョセフ・ラインの大筋の経歴であり、この後、ドッジ・ラインを立案していくのである。 ドッジ・ラインって何? 戦後の日本経済を立て直すため。 自立と安定をはかった財政政策。 本当に自立と安定のためだったのか? 何か思惑があるのでは?! 調べていくうちに、ドッジ含め、それを指導するアメリカ側の思惑が見えてきた。 本当は、日本のためではなかった?! 《ドッジ・ライン政策の目的》 アメリカの支配する世界資本主義経済の中に、自由競争を基盤として日本を組み込むこと。 そのため・・・インフレを抑制し、輸出を増大する必要! だからこそ、ドッジが掲げた政策として、3つ挙げられる。 日本の政策を見直すとともに、国家の総合予算全体に着手していった。 池田は一般会計だけを取り上げ、1948年以来予算は黒字を保っているとしていたが、実際は、国立学校や国立病院、政府の貸付資金、日本国有鉄道といった政府所有企業を含めた特別会計の赤字を無視していた。 赤字を補う方法として、公債発行や日本銀行から借入金を使っていたのである。 <政府の総合予算の赤字> 46年度 620億円 47年度 1490億円 48年度 3480億円 国家の歳入の約1〜2割がインフレ促進に使われていた。 予算見直しで、歳出減するために削減対象を拡大していた。 運賃6割値上げ、運営コストを切り下げて採算をとった 1949年度予算の全歳出が減少し、税収は大幅に増加。 予算も均衡になり、インフレをもたらす政府借入金の増加を抑制した。 見返資金は、1949〜50年度の全予算の2割を占めていた。 この資金には二つ目的があった。 また、復興金融金庫を縮小し、ゆくゆくは廃止の方向に持ち込みたかったが、廃止までは至らなかった。 為替レートを低く設定しすぎて、「国内市場の商品を輸出に回すことが目的なのに、輸出品が国内市場に流れる」ことを懸念していた。 1ドル=330円で一度は手を打たれたが、最終的には1ドル=360円で固定された。 以後、22年間この為替レートは続くことになる。 建前上は、日本経済の自立と安定をはかった金融引き締め政策だが、ドッジらの思惑は全く別のところにあった!! 米国の支配下におくため、日本を手なずける策がドッジ・ラインだったのではないか? 他にも、ジョセフ・ドッジと関わりがあるのではないかという記事を見つけたので、以下紹介する。 引用 クリーブランド・ドッジ。 ドッジ一族は、後にブッシュ一族と共に、世界最大の銀行シティバンクを経営。 第二次世界大戦後、日本に米軍を常駐させ、日本を再軍備=自衛隊を作り、それと引き換えに日本を経済成長させ、「日本と中国、ロシアとの戦争に備えさせる」政策=いわゆるドッジ・ラインを作成した一族が、このドッジである。 現在の日本に常駐する米軍、また自衛隊、日本の「豊かさ」は、麻薬企業ラッセルの取締役ドッジ一族により「設計」されて来た。 ラッセル社の経営陣の中に、クリーブランド・ドッジがいる。 ジョセフ・M・ドッジと何かつながりがあるのではないか? この二人の関係性は?! まだ推測だが、ジョセフ・M・ドッジとクリーブランド・ドッジは、近い関係だったのではないか。 親戚? また、ラッセル社とのつながりは?! 実に興味深い人物である。 引用先 オルタナティブ通信 参考文献 『占領1945〜1952』 ハワード・B・ショーンバーガー 最後まで、読んでいただきありがとうございました。

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戦後日本の高度経済成長を検証する NO.2〜ドッジ・ラインのしくみについて ジョセフ・M・ドッジって何者!?

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安倍政権が日銀に対して2%の物価目標の導入と量的緩和の拡大を強く要求し、日銀がこれを受け入れたことから、市場では早くもインフレを警戒する声が出始めている。 足元の経済状況では2%の物価目標はおろか、1%の物価上昇ですら困難が予想される。 インフレの心配など杞憂かもしれないが、一方で、ひとたびインフレになってしまうと、それを押しとどめることが極めて難しいというのもまた事実である。 日本は長期間にわたってデフレが続いてきたので、インフレに対する免疫がほとんどない。 インフレを収束させる際に受け入れなければならない痛みについてイメージできる人は思いのほか少ないのだ。 インフレ期待が高まっている今、過去の事例を振り返り、国家がインフレを収束させるために何をしてきたのかについて知っておくのも悪くないだろう。 70年代の米国を苦しめたスタグフレーション 同じインフレでも平時に発生するインフレと有事に発生するインフレでは状況がまるで異なる。 ここでは平時のインフレとして70年代の米国で発生したスタグフレーションの事例を、有事のインフレとして太平洋戦争前後の日本に発生したインフレを取り上げてみる。 70年代の米国は物価の上昇と経済の低成長が同時に発生する、いわゆるスタグフレーションに悩まされた。 これは米国の競争力に限界が見え始めたことや、ベトナム戦争の長期化によって財政負担が著しく増大したことが直接の原因といわれている。 現在の日本にも通じる成熟国家型のインフレである。 図1は1970年代から80年代にかけての米国の物価、株価、金利の動向を示したチャートである。 1970年からの10年で物価は約2倍に上昇したが、この間の実質GDPの成長率は平均3. 1%だった。 今の感覚からするとそれほど悪い数字ではないが、それまでの米国が平均4%台の成長を続けていたことを考えると大きな落ち込みであった。 米国企業の競争力は低下し、それにともなって企業収益も悪化した。 株式市場は低迷し10年以上にもわたってダウ平均株価は横ばいが続いた。 インフレ率を考慮すると実質的に半分に下落してしまったことになる。 政治的にも暗い時代であった。 ケネディ大統領が開始したベトナム戦争は泥沼化し、ニクソン大統領は就任直後からその後始末に追われることになった。 しかも1974年にはウォータゲート事件で辞任するという前代未聞の事態となってしまった。 1977年に就任したカーター大統領には政治刷新と景気回復が期待されたが、ほとんど成果を残せないまま4年の任期を終えてしまったのである。 ボルカーFRB議長の強硬策とレーガン大統領の登場 70年代の経済政策は常にインフレに振り回され続けた。 景気の先行きを懸念するニクソン大統領の意向を強く受けたバーンズFRB長官は、インフレ懸念があるにもかかわらず70年に利下げを断行しインフレを一気に加速させてしまった。 その後利上げに転じるものの、経済が不調であったことから、議会からは常に利下げの圧力がかけられた。 FRBはしばらくの間、思い切った手を打つことができず、本格的なインフレ抑制策に乗り出すことができたのは、ボルカー議長が就任した79年以降のことである(後にボルカー議長はインフレファイターと呼ばれた。 写真は現在のボルカー氏)。 ボルカー議長は、利上げを行えば議会から激しい突き上げを受けることが分かっていたので、政策金利ではなくマネーサプライを政策目標に切り替えると宣言した。 だがこれは一種の情報戦で、ウラでは矢継ぎ早に利上げを実施し、強烈な金融引き締めに転じたのである。 ボルカー議長は当初10%前後であったFF金利(米国の基準となる政策金利)を一気に20%まで引き上げたため、金融市場は大混乱となった。 信用収縮が起こり、実質GDPもマイナス成長に転じたが、ボルカーはひるまず引き締めを続行した。 長期金利は一時16%近くまで上昇している(図1)。 81年には強いアメリカを標榜するレーガン大統領が圧倒的な支持で大統領に就任した。 レーガン大統領は、歳出削減、大型減税、規制緩和、マネーサプライ抑制(ドル高政策)を主軸とする経済政策(レーガノミックス)を発表、市場には大きな期待感が生まれた。 82年にはとうとうインフレが沈静化しそれと同時に株価も上昇に転じることになった。 70年代に米国を襲ったインフレは、ボルカー議長による徹底的な金融引き締めと、レーガン大統領の大胆な経済政策によってようやくその悪循環を断ち切ることができたのである。 太平洋戦争前後で物価は180倍になった 一方、太平洋戦争前後の日本を襲ったインフレはさらに解決が困難なものであった。 日本は日中戦争と太平洋戦争を遂行するために、総額で開戦当初の国家予算(一般会計)の100倍という途方もない資金をつぎ込んでいた。 これらの費用はすべて国債発行(日銀による直接引き受け)で賄われたため、戦時中から悪質な財政インフレが進行した。 また度重なる空襲で日本の生産設備は50%以上が稼動不能となり、極端な供給不足の状態が続いていた。 このため終戦後にはインフレが一気に爆発することになり、日本は猛烈な物価高に襲われた。 図2は1940年から1955年までの物価指数と公定歩合の推移を示したものである。 1941年の太平洋戦争開戦時から終戦後インフレが収束する1952年までの間に小売物価指数は180倍近くにもなった。 第一次大戦後の5年間に物価が1兆倍に上昇したドイツのハイパーインフレに比べればはるかにマシだが、それでも戦争前後の猛烈なインフレは日本経済と日本人の生活に壊滅的な大打撃を与えた。 日本では戦争が近づくにつれて民主主義が弾圧され、軍国主義的な体制に変わっていった。 これに伴って国家による経済統制も厳しくなり、1938年に施行された国家総動員法以降は完全な統制経済に移行した。 生活必需品をはじめ多くの商品が価格統制の対象となり、見かけ上インフレは抑制されることになった。 だがどんなに価格統制を強化しても、貨幣の乱発と物資不足から来るインフレは進行しており、公定価格とは別の闇価格が形成されるようになってきた。 図2の濃い青のグラフは闇市場価格における物価推移を示している。 戦後、闇市場は半ば公認され、市場データも記録されるようになったが、戦前については闇市場は名実共に禁止されており、公式のデータは存在していない。 グラフの破線は戦後の闇市場価格をもとにした戦前の推定物価指数である。 これによると、終戦が近づく頃には、すでに相当のインフレが進んでいたことが推察される。 もっとも戦時中はインフレといっても、物資が極端に不足しており、どんなに高い価格を提示しても購入すること自体が難しかったと思われる。 日々の食料確保にも事欠く状態であり、国民の生活感覚としてあまりインフレは意識されなかったかもしれない。 多くの人がインフレを意識するのは終戦後、自由な経済取引が解禁されてからである。 預金封鎖と財産課税という荒療治 それでは180倍近い物価上昇となった準ハイパーインフレを日本はどのようにして収束させたのだろうか?当時は公定歩合も統制対象となっており、戦時中にはほとんど改定がなかった。 また戦後も1952年までの間に4回ほど利上げを行っただけである。 現実のインフレ対策はもっと暴力的な方法で行われた。 預金封鎖と財産課税による金融資産の強制徴収である。 預金封鎖とは、銀行口座を強制的に凍結した上で新しい紙幣(新円)を発行し、新円と交換しない限りは預金を引き出せないようにした措置のことを指す(緊急金融措置令および日本銀行券預入令)。 政府は預金封鎖と同時に財産税法を公布し、封鎖された預金に対して最高税率90%にも達する税金を課した。 マクロ経済的には、過剰な紙幣発行で膨らんだ国家のバランスシートを、国民からの強制徴収によって現実の価値水準まで削減したのである。 この措置によって預金のほとんどは国家によって吸い上げられ、多額の預金を持つ資産家はほぼ全財産を失った。 ドッジ・ラインによってインフレはようやく収束したが また金融システムの面では、産業界への資金援助を見直し、企業の自助努力を促す政策に転換した。 これはGHQの経済顧問として来日したジョセフ・ドッジ氏による勧告ではじまったことからドッジ・ラインと呼ばれている(写真は来日したドッジ氏。 左は池田勇人元首相-当時は大蔵大臣)。 ドッジ・ラインでは、均衡財政、政府系金融機関による融資の見直し、債務の償還、公務員のリストラなどが実施された。 特に大きな影響を及ぼしたのが、政府系金融機関による融資の見直しである。 終戦後、復興支援を目的として復興金融金庫(現在の政策投資銀行)が設立され、ここから産業界に対して巨額の融資が行われていた。 戦争によってあらゆる設備が破壊されており、大量の資金が必要であったことを受けた措置だが、この融資がインフレをさらに加速させていた。 ドッジ・ラインによって新規の融資や追加融資が中止となったことで、市場は一気に冷え込み、多くの企業が倒産の危機に直面した。 この時期、トヨタも倒産寸前となりギリギリで倒産を回避している。 国民からの暴力的な資産徴収と金融機関を介した強烈な金融引き締めでインフレは何とか収束した。 日本経済はこの反動で大不況となるのだが、戦後日本はツイていた。 朝鮮戦争の勃発によって一気に経済は回復、高度成長に転換することが可能となったのである(朝鮮戦争特需)。 これがなければ、しばらの間、日本はデフレに苦しむことになっていたはずである。 大きな痛みを伴う過酷なインフレ抑制策の後には、なぜか米国ではレーガノミックスが、そして日本では朝鮮特需が発生し、その後の成長につながった。 だがこれらの出来事は必然なのか、それともただの偶然なのかは誰にも分からない。 日本やドイツのインフレ発生時に、株価や土地、金などが具体的にどのような値動きをしたのかについて興味のある方は弊社作成の以下の有料レポートをぜひ参照して欲しい。 ・ ・ (別サイトでの有料販売となります。 ご注意ください).

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