大江山 人物関係。 【京都大江山 酒呑童子】鬼の伝説を追う山旅

小式部内侍

大江山 人物関係

小式部内侍 小式部内侍(こしきぶ の ないし、元年()頃 - 2年()11月)はの女流。。 の一人。 父は、母は。 母の和泉式部と共にの中宮・に出仕した。 そのため、母式部と区別するために「小式部」というで呼ばれるようになった。 経歴 [ ] 母の和泉式部は小式部内侍を妊娠した時に郷里の湖山へと戻っていた。 和泉式部は安産祈願の為、現在の鹿野にある住吉神社へ17日間に亘って参詣し、内侍は鹿野町水谷で誕生したとされる。 住吉神社の西にはその際の産湯に使われたとされる井戸が残っている。 母同様恋多き女流歌人として、・・・など多くの高貴な男性との交際で知られる。 教通との間には、範永との間には娘をもうけている。 万寿2年、の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に20代で死去し、周囲を嘆かせた。 この際母の和泉式部が詠んだ歌 「教導立志基」より『小式部内侍』 筆 当時、小式部内侍の歌は母が代作しているという噂があったため、四条中納言()は歌合に歌を詠進することになった小式部内侍に「代作を頼む使者は出しましたか。 使者は帰って来ましたか」などとからかったのだが、小式部内侍は即興でこの歌を詠んだ。 意味としては「大江山()を越えて、近くの生野へと向かう道のりですら行ったことがないので(または、に向かって行く野の道・大江山の前の生野への道が遠くて、大江山の向こうの)、まだ母のいる遠いの地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」であり、「行く野・生野」「文・踏み」の巧みなを使用しつつ、当意即妙の受け答えが高く評価された。 四条中納言もまた小倉百人一首に選ばれているほどの歌人であったが、当時歌を詠まれれば返歌を行うのが礼儀であり習慣であったにもかかわらず、狼狽のあまり返歌も出来ずに立ち去ってしまい恥を掻き、この一件以後小式部内侍の歌人としての名声は高まったという。 脚注 [ ] [].

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小式部内侍が大江山の歌の事・ 現代語訳・品詞分解・読み方

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古来この国では、月の満ち欠けに基づく公式の暦 太陰暦=1年354日 を補う目的 註:純粋の太陰暦を用いたら、太陽暦とは3年間で約1カ月のズレが生じ、18年経てば夏と冬が反対になってしまうので、約3年に1度の割合で閏月を挿入し、ズレを補正する太陽太陰暦が用いられていた。 ひとつの節気から次の節気までの期間は約15. 2日 に基づく1太陽年の旧年と新年 立春 の「境」の 節目の日として「節分」を設けてきた。 現在では、「鬼は外! 福は内!」の豆まきで知られるこの行事は、古来、「追難 ついな 」あるいは「鬼やらい」と呼ばれ、災厄を祓わなければならない特別の日として、宮中から市井の庶民に至るまで、盛んに節分行事が実施されてきたのである。 しかも、この厄介な禍々しい魔力は、毎年毎年、異なった方角からやって来ると信じられていたので、現在でも「今年の恵方 えほう 」と称して、そちらの方角を向いて、巻き寿司を一気にまるかじりする習慣が行なわれている。 私は、これまで『主幹の主観』シリーズにおいて、何度も「鬼」の正体について考察してきたので、読者の皆さんは既にご存知のことと思うが、 鬼 註:「鬼」の漢字の意味は、上半分が頭蓋骨の形象で、下半分は折り曲げられた脚の形象。 「鬼籍に入る」という言葉が示すように、魂魄や魑魅魍魎と同様、死体と関連した言葉だった というのは、おそらく伝染病、なかんずく一度罹患すると、たとえ一命は取り留めても「見目 みめ 定め」 註:江戸時代、日本では「はしか 麻疹 の命定め、疱瘡 天然痘 の見目定め」と恐れられ、一度、天然痘に患った人は、たとえ一命は取り留めたとしても、顔面に痘痕 あばた が残り、醜くなった と恐れられた痘瘡 疱瘡・天然痘=smallpox のことであろうと推察してきた。 この、記録が残っている中では人類最古の伝染病 註:紀元前12世紀のエジプト王ラムセス5世のミイラにも痘痕がある として、人類始まって以来これまでに約5億人を死に至らしめてきたが、地球上から最後の天然痘患者 註:1977年10月、西アフリカのソマリア人男性が人類最後の天然痘患者。 彼は患者を搬送する車の道案内のために、わずか3分間同乗して感染した がいなくなって四半世紀が経過し、 天然痘の脅威は既に過去のものとなったかに思えた。 因みに、日本では、古代以来、6月30日は、奇しくも「水無月 みなつき の晦日 つごもり の大祓 おおはらい 」という「災厄 伝染病 封じ」の宮中行事が行なわれてきたその日である。 ところが、両国とも「微生物テロ」の可能性を理由に全面廃棄を3年間延長した。 その間に、2001年9月11日、米国で、思いもかけない同時多発テロと、引き続いて、炭疽菌テロ事件が発生し、米露ともにこの約束 2002年6月30日に全面廃棄 も反故にし、それどころか「国際テロと闘う自国の兵隊の身の安全を守る予防接種を打たせるため」と称して、アメリカだけでも年間250万本もの種痘ワクチンが急ピッチで増産され、日々、兵隊に接種されているのである。 しかし、種痘ワクチンの本数が増えれば増えるほど、悪事に利用する輩が出てきたり、どこかで管理上の手落ちが起こるものであり、たとえ天然痘ウイルスがテロリストの手に渡らなくても、何かの事故や取り扱い上のミスが生じて、環境中に活性化したウイルスが拡散してしまうということの危険性が常に考えられる。 彼ら欧米人の頭の中には、常に「 生物兵器」という発想への潜在的警戒感が拭えないのである。 天然痘が最初に生物兵器として使用されたのは、なんと18世紀中頃のフレンチ・インディアン戦争に遡る。 英国軍は、天然痘患者の使っていた毛布をインディアンに贈答し、この病気に全く免疫のなかったアメリカ先住民に壊滅的打撃を与えたのである。 他にも、故意ではなかった 疫学的知識がなかった としても、16世紀に「新大陸」に侵出したスペインによってインカ帝国等が滅ぼされたのも、主たる原因は、その武力の差によってではなく、ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘であることはほぼ間違いない。 まるで「鬼」のような面相である 本論は、そのようなテーマ 生物兵器テロ について考察するのが主旨ではないので、これぐらいにしておくが、いずれにせよ、天然痘患者の写真を見ていただければお判りように、顔中が真っ赤に腫上がり、ボコボコのできものから出血し、元の人物とは全く別の人相の「鬼」と呼んでもよいような無気味な面相になるのである。 しかも、現代のような科学的知識のなかった古代や中世においては、ある日、突然、目に見えぬ 原因不明の 伝染病が流行だし、バタバタと人々が倒れてゆき、都市国家を大きな混乱に陥れたのである。 この事象への事後 説明として、人智を越えた何らかの「デモーニッシュ 鬼的 な力が働いた」と解釈するのは当然のことであろう。 都市と伝染病と宗教が密接な関係を持っているのには、そういう訳がある。 わが国における天然痘についての記述、および、そのことに古代国家がいかに対処したか といっても呪術的にではあるが についての記録は、わが国最古の大都市である難波宮 なにわのみや 註:4世紀末の仁徳天皇期の「高津宮 たかつのみや 」があったと伝えられる地点は、現在の大阪城あるいは難波宮跡の辺りと言われるが、本論で取り上げる「難波宮」とは、「大化の改新」 645年 の際に「長柄豊碕宮 ながらとよさきのみや 」と呼ばれた「難波宮」へ遷都した孝徳天皇の時代のこと に見られる。 「茅渟 ちぬ の海」と呼ばれた大阪湾岸の湿地帯を見下ろす上町台地 註:大阪市内唯一の水はけの良い強固な地盤がある台地。 仁徳天皇の「高津宮」から遅れること200年後に、上町台地の上に、わが国最初の官寺である四天王寺が聖徳太子によって建立され、さらに遅れること1000年後に、豊臣秀吉によって大坂城が築城された の周りを取り囲むように、東には大和川と河内湖 入江 、北には淀川、西側には茅渟の海に囲まれた極めて水運のよい土地であった。 150年後に都が平安京 794年 に遷ってから、摂関家に近づき、武家としての清和源氏で最初の「有名人」となった摂津国に本拠を置いていた源頼光の『鬼退治』の話に、坂東出身の坂田金時 『金太郎』のモデル ら「四天王」の一人として、摂津国出身の渡辺綱 わたなべのつな が登場するが、その渡辺綱は、頭目である源頼光と共に丹後国にある大江山に鬼 酒呑童子と呼ばれた を退治しに行った 註:他にも平安京の羅生門の鬼=茨木童子も綱が退治したことになっており、綱は鬼退治のスペシャリストとして理解されていた ことになっているが、実は、その原型は、早くも難波宮において確立されているので ある 註:「大江山難波宮起源説」については、『大阪人』56号 2002年8月 で、 高島幸次氏が指摘している。 」 それは、現在の大阪市役所がある堂島川と土佐堀川の中州である中之島 註:400年前に全国の諸大名の蔵屋敷が置かれ、米相場に基く世界初の商品先物取引市場が形成された に掛かる渡辺橋と大江橋という二つの立派な橋の名前となって残されているのである。 隋・唐や渤海・百済・新羅といった外国からの交易船が日常茶飯事に到着した難波宮では、「いつ外国から未知の伝染病が伝わるかもしれない」という意味 註:後世の知恵として、都から遠く離れた大宰府に外国からの使節を暫く留め置いて、伝染病の侵入を抑止するようになった でも 鬼はすぐ近くにいたが、淀川という水運があるにはあったが海から遠く離れた盆地にある平安京では、もう少し遠い距離感をもって 鬼的存在が意識されていたものと考えられる。 それが、当初は帝都平安京と当時の「表日本」であった日本海側に開いた山陰道との国境である「老ノ坂」 註:「坂」が「境」の意味を持つことはで述べている の大枝 おおえ に移され、後に、もっと遠ざけられた丹後国の大江山にその舞台は移されたが、いずれも山とはほど遠い、水辺に関係する「大江 おおえ 」という地名と渡辺綱という登場人物名に、遥か大昔の難波宮時代の記憶を留めている話なのである。

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源頼光と四天王が退治した大江山の酒呑童子とは何者か

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日本の鬼交流博物館 (京都府福知山市大江町) 今日は何の日 治安元年7月19日 酒呑童子や土蜘蛛を退治した源頼光が没 治安元年7月19日 1021年8月28日 、源頼光が没しました。 清和源氏の3代目で、摂津源氏の祖とされます。 しかし一般に知られるのは、酒呑童子や土蜘蛛を退治した、「みなもとのらいこう」の英雄譚でしょう。 頼光は天暦2年 948、異説あり 、源満仲の嫡男に生まれました。 20歳頃に出仕して東宮時代の三条天皇に仕え、次第に官職を得て財力を蓄えたといわれます。 正暦元年 990 、43歳の時に藤原道長の側近となり、長保3年 1001 にはそれまでの備前守に加えて美濃守を兼任、任地の美濃に赴いたとされます。 その後、左馬権守、正四位下に叙任されました。 諸国の受領を歴任することで蓄えた財をもとに、たびたび藤原道長に進物を贈り、重んじられ、「朝家の守護」と称されます。 若い頃に、御堂の側で寝ている狐を、東宮の命で蟇目の矢で射て、命中させたという話が伝わりますが 『今昔物語』 、頼光は合戦に出る機会もなく、武張った話は史実の上では多くありません。 おそらく頼光の実像は、摂関家に臣従した「護衛役」としての武士であったのでしょう。 では、酒呑童子の話は全くのフィクションかというと、必ずしもそうではなく、たとえば京都府宮津市の成相 なりあい 寺には、「此の度当国大江山夷賊追討の爲勅令を蒙る」と記した頼光の寛仁元年 1018 の願文が残っています。 果たして頼光が願文にいう「大江山夷賊」とは、何者だったのでしょうか。 『酒呑童子絵巻』などによれば、摂関家が栄華を極めていた一条天皇の頃、京の都から姫君が次々とさらわれました。 陰陽師・安倍晴明によって、これは大江山に棲む酒呑童子のしわざと判明します。 そこで一条天皇の命で、酒呑童子追討に向かったのが源頼光でした。 頼光は配下に藤原保昌と、四天王と呼ばれる屈強な武士を連れています。 すなわち渡辺綱、坂田公時、卜部季武、碓井貞光らです。 坂田公時は、あの足柄山の金太郎でした。 一行はしかし、なかなか酒呑童子の大江山の城を見つけることができません。 困っているところに不思議な老僧たちと出会います。 頼光らはこの時気づきませんでしたが、老僧らは住吉や八幡の神が姿を変えて加護に現われたものでした。 老僧らは頼光一行に山伏姿に変装することを勧め、「神便鬼毒酒」という酒を渡します。 これは鬼が飲めば毒酒に変わるという特別な酒でした。 山伏姿となった頼光らは、鬼ヶ城に至り、仲間になりたいと偽って鬼たちに迎えられます。 鬼たちは一行のために宴を開きますが、出された肴はつけねから斬られた女の足でした。 さらわれた姫君たちの変わり果てた姿です。 頼光らは持参した酒を勧め、酒呑童子らが酔いつぶれたところを見計らって武装し、寝所を襲って、酒呑童子の首をはね、手下の鬼たちも討ち果たしました。 頼光らは戦利品として、その首を都に運ぼうとしますが、途中、丹波と山城の国境で地蔵尊から、「不浄の首を都に入れるのはよくない」と言われ、途端に首が重くなって持ち上がらなくなったため、その場に葬ります。 それが丹波の老の坂でした。 酒呑童子とは何者であったのか、さまざまな説があります。 一説には「シュテイン・ドッジ」という外国人で、食べていたとされる人肉と生き血は、獣肉とワインではなかったか、ともいわれます。 しかし、当時の童子には鬼の意味も含まれますので、おそらくは山の中で暮らす人々、とりわけ産鉄民ではなかったか、という見方が有力です。 山伏の姿をしたら迎え入れられたというのも、山伏も山で生きる者として彼らと近い関係にあったからでしょう。 そして鉄は武器や工具の原料として、朝廷にすれば管理下に置きたいものでした。 おそらく頼光の役目は、悪鬼を討つというより、産鉄民を力でねじ伏せ、鉄を奪うものであったのかもしれません。 一説に頼光の父・満仲は、多田銀山開発に関わったといいますから、鉱山に関する知識を頼光も持っていた可能性があります。 酒呑童子は最期に「鬼に横道はなきものを」と言葉を吐いて、首になって頼光の兜に噛み付いたといいます。 これは「自分は道に外れたことはしていない。 道に外れているのはお前たちではないか」と受け取れます。 何となく酒呑童子が、陸奥の安倍貞任や藤原経清にかぶって見えてきてしまいます。

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