ここから大橋駅まで。 【LA・PAN(ラパン) 大橋店】ここにもあった高級生食パン、やはりそのままが美味しいね

旧東海道、京都三条大橋からの歩き旅

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旧東海道歩き旅について佐藤三禄様にお話したところ、、江戸時代以前の謡曲その他、色々興味深いお話を伺いました。 鐡道唱歌、その源流は700年前にあったようです。 その詳細は とご覧いただけます。 (2018年1月18日から始めた旧東海道歩き旅の様子です。 京都三条大橋から草津宿までは旧中山道と同じです) 旧中山道歩き旅はご覧ください。 目 次 本ページにも目次の後に印象に残った代表的写真を載せました。 京都三条大橋 逢坂山関所跡 瀬田の唐橋 瀬田唐橋にて、100年以上前、明治のころに異常な増水があったようです。 旧東海道と旧中山道の分岐点(草津宿)、トンネルの上は廃川となった天井川の草津川、トンネルの先が旧中山道、右に曲がれば旧東海道 東海道では二川宿と草津宿にしか現存しない本陣 三上山(近江富士)とJR草津線 石部宿にて 琵琶湖疎水を進む遊覧船 琵琶湖疎水 甲西駅近く、うつくし松、ここの松は皆根元から幹が分かれて生長します。 JR草津線を走る忍者電車、SHINOBI-TRAIN 水口宿、曳山まつり 坂上田村麻呂を祭ってある田村神社、土山宿近く 茶畑と杉林の境が鈴鹿峠であり、滋賀県と三重県の県境でした。 関宿、昔の面影を多く残しています。 関宿からの鈴鹿の山並み 鈴鹿川沿いにある旧東海道随一の長さ(約2㎞)の畷、太岡寺畷、上を走るのは東名阪自動車道など 鈴鹿の山々 推定樹齢三百年、庄野宿、川俣神社のスダジイ 石薬師宿 佐佐木信綱と卯の花の里 彼岸花が真っ盛り 四日市宿、アーケードの中を旧東海道は続きます。 四日市祭、大入道(おにゅうどう) 夜のうちに出た煙突からの蒸気が雲になっているのでしょうか。 力石、所々で見かけました。 桑名宿 七里の渡し跡 新幹線からほんの一瞬ですが見ることのできる、宮宿、七里の渡し跡、東京方面へ名古屋駅を出発、2,3分後、進行方向左側です。 拡大したもの、背後の森は熱田神宮です。 宮宿、七里の渡し、ここから桑名まで7里の船旅だったようです。 塚にしっかり根を張る笠寺一里塚の大木 有松絞り 間の宿有松 桶狭間古戦場跡 知立の松並木 幹周り4. 4m、樹齢350年、永安寺の雲竜の松 矢作川、日吉丸と小六、出合之像 岡崎城 藤川の松並木 法蔵寺 近藤勇、首塚 御油ノ松並木 瓜郷遺跡、弥生時代の竪穴住居跡 豊橋の上から眺めると、奇麗な水の豊川でシジミ採り! 吉田宿、名物、きく宗の菜飯田楽 豊橋と言えばちくわ、路面電車は皆カラフルでした。 二川宿 東海道に2か所しか現存しない本陣の一つ、もう一つは草津宿にあります。 潮見坂近くからの太平洋、東海道を京都方面から歩いてくると太平洋を初めて見ることのできる場所 新居関所、江戸時代の関所の建物が残るのは全国でここだけのようです。 1854年の南海トラフ巨大地震後に再建されたもののようです。 弁天島辺りからの浜名湖、遠くに見えるのは国道1号線、浜名バイパス、その先が太平洋です。 明応地震(1498年)前はこの辺り陸であったようです。 舞坂の松並木 波小僧 浜松城 天竜川、橋だけで1kmほどありました。 この時期秋祭りの季節です。 磐田にて 磐田駅、ジュビロ磐田の本拠地です。 見付宿、旧見付学校 記憶にありませんが、このような教科書を使っていたようです。 袋井宿は旧東海道、宿場の中で真ん中に位置する宿場のようです。 袋井まつりの真っ最中、旧東海道の松並木、屋台(山車)の行列でした。 このところ何回も新幹線から眺めていた掛川城へ到着です。 急な日坂を上った後、小夜の中山峠あたり、この辺りで富士山が見えるようなのですが、あいにくの雨模様 菊川坂、金谷坂、平成の普請で完成した石畳の道が続きます。 金谷坂、すべらず地蔵尊、合格祈願の札などでいっぱいでした。 掲載ページへ 新金谷駅、大井川鉄道の蒸気機関車 昭和3年架設の大井川橋、橋の長さが約1㎞あります。 土木学会選奨土木遺産 島田宿近く、大井川に架かるギネス認定の世界一長い木製歩道橋、蓬莱橋、約900mあります。 台風の影響で橋の中ほどまでしか通行できませんでした。 藤枝宿、久遠の松、1253年日蓮上人お手植えの松、幹周り5.2m、高さ27mとのことです。 藤枝宿を早朝に出発、藤枝名物おたけせんべい他、商店街のシャッターには浮世絵が、閉店時でなければ見られません。 岡部宿 大旅籠柏屋 台風による倒木などがあり、荒れていた宇津ノ谷峠 丸子宿、とろろ飯の丁子屋 安倍川橋と富士山 静岡中心街では駿府城も含めて、「大道芸ワールドカップin静岡」が開催中 家康もびっくり! 静岡県護国神社 JR清水駅改札近くからの富士山 清水と言えば、今ではさくらももこ! 昔は次郎長! 航空機燃料として伐採されてしまった細井の松原 清見寺の五百羅漢 薩埵峠辺りからの三保の松原 薩埵峠辺りからの富士山 由比と言えば桜えびですが、最近は不漁のようです。 蒲原宿 富士川からの富士山 吉原宿、今も営業中の鯛屋旅館、1682年創業 平家越、源平、富士川の合戦 JR東田子の浦駅近くからの駿河湾 東田子の浦辺り、海岸には堤防と松原が続きます。 千本松原、海岸では台風後の流木などの清掃活動中のようでした。 三島駅前の楽寿園 三嶋大社 伊豆国一之宮 国指定の史跡 錦田一里塚 左右一対現存 山中城址 箱根の石畳道、色々 箱根峠、峠の地蔵(2003年) 復元された箱根関所 巨木が並ぶ杉並木 箱根旧街道石畳道 城のような構えの我が国製薬の祖、外郎(ういろう)氏、明治になり菓子のういろうも販売する。 小田原、町ごとの説明がありました。 酒匂川にシロサギの群れ(左)、アオバト(左)、今回は行きませんでしたが大磯照ヶ崎海岸、写真をクリックすると大磯のアオバトへリンクします。 小田原から大磯にかけて、1号線、海岸に近い所ではあちらこちらにこの標識 大磯、松並木が一部残っていますが、江戸時代のものは松くい虫による被害などでほとんど枯れてしまったようですね。 化粧坂 旧東海道、関東には塚の残っている昔の一里塚はあるのでしょうかね。 これは平成の一里塚のようです。 江戸時代の日本橋からの距離と無関係のようですね。 平塚、花水川の近くにあります。 平塚の由来 番町皿屋敷 お菊塚 小栗判官、十勇士之墓 お軽、勘平の碑 戸塚宿から品川宿間はまだです。 品川宿 泉岳寺、赤穂浪士の墓 大木戸跡 増上寺と東京タワー 増上寺、千躰子育地蔵菩薩 銀座、歩行者天国 京橋の親柱とそれを模した交番の屋根 日本橋.

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角島大橋へのアクセス方法について 白い砂浜とエメラルドグリーンの海に架かる壮大な橋 外国人観光客人気も急上昇、CMや映画ロケ地として知られる山口県の角島と角島大橋~列車とバスと徒歩でアクセスする方法 西日本の観光地として全国的に有名になった「角島(つのしま)」「角島大橋(おつのしまおおはし)」ですが、東京や大坂からはどのようにアクセスすればいいのでしょうか? 車、電車、バス、そして最寄空港や駅は?などなど、よくわからない人は多いと思います。 また、車やレンタカーを使って行く方法はブログなどにもありますが 電車やバスを使って行く方法はあまり書かれてないようです。 そこで、レンタカーや車の運転ができない方、電車でのんびり旅したい方、女子旅を企画している方に最寄りの空港や駅から電車とバス、そして徒歩で角島や角島大橋を楽しむ方法をご紹介します。 また、角島大橋は無料で渡れる一般道路として日本最長の長さ1,780mを誇ります。 絶景の海を背景に雄大にそびえる角島大橋はテレビCMや映画のロケ地として知られ 山口県の新たな観光スポットになっています。 角島への経路については交通アクセスは車がないと行けないというわけではなく 以外ででも電車とバス、そして徒歩で行けます。 1 JR山陰本線特牛駅からバスで15分 2 JR山陰本線滝部駅からバスで25分 3 中国自動車道下関ICから車で70分 角島大橋へのアクセス車(自動車)の場合 山口県の下関市の外れにある角島へは通常、車で行くのが便利です。 各高速のインターからのアクセスは以下のようになっています。 広島方面から車でアクセス 美祢ICより角島までアクセス時間約60分 中国自動車道美祢ICから下りて国道435号線から国道191号線を北上。 県道275号線をさらに北上すると角島に到着します。 美祢西ICからは約60分です 中国自動車道美祢ICでインターを降りる場合は県道33号線~国道435号線の経由となり国道191号線を北上。 県道275号線を北上。 福岡・北九州方面から車でアクセス 小月ICからは約60分 小月ICよりで下車、国道491号~県道34号~国道435号を経由して、国道191号線を北上。 県道275号線を北上すると角島に到着します。 下関ICより下関ICからは約60分 中国自動車道下関ICで下車し国道191号線を北上。 県道275号線を経て角島に到着します。 各インターはマップで調べてください。 角島へレンタカーでのアクセスは? また遠方からの場合は、宇部空港や新下関駅(新幹線)下関駅からレンタカーを利用すると便利です。 角島の住所は 〒750-5332 山口県下関市豊北町大字神田~角島となっていますので レンタカーのナビなどの設定にお役立てください。 関東や関西など日本中から観光客が集まる角島へは、最寄りの駅や空港からは車やレンタカーでしか行けないのでしょうか? 角島は車がないと行けないことはなありません。 電車とバスを乗り継いだ角島へのアクセスは、「のんびり旅」や「女子旅」にもおすすめです。 下関駅からJR山陰本線よりJR山陰本線 特牛駅(こっとい)で下車。 ブルーライン交通バス角島行きで約23分です。 まずは、関東や関西からJR山陰本線 特牛駅までのゆき方をご紹介します。 角島 アクセス 東京や大坂から空港とJR(新幹線駅)はどこ? 角島へのアクセス東京や大阪からはどのようにして行くのでしょうか? 県外からの観光客も多い角島大橋は 飛行機でアクセスする場合は、山口宇部空港、北九州空港、福岡空港が最寄りの空港となります。 新下関駅へ「のぞみ」「ひかり」は停車しない車両もありますので ご注意ください。 特牛駅からバスはブルーライン交通のバスに乗り継ぎます。 (滝部駅でもOK) 「特牛駅 こっとい 」が電車とバスの乗り継ぎ|『角島大橋へのアクセス』 下関駅からJR山陰本線で「特牛 こっとい 駅」まで移動しましょう。 下関駅から「特牛 こっとい 駅」までは1時間13分ほどかかります。 JR山陰本線は電車の数が少ないのでご注意ください。 こちらにJR山陰本線の時刻表のリンクを載せておきます。 JR山陰本線「特牛駅」よりバスで角島大橋に移動する ブルーライン交通株式会社のバスとなります。 駅周辺は何もなくバスの本数も少ないので事前にバスの時刻表は確認しておきましょう。 sandenkotsu. sandenkotsu. sandenkotsu. sandenkotsu. pdf】 こんな絶景が日本にあるとは。 実際に走ってみたら気持ちいいんだろうなあ 山口県角島大橋。 — さえ saesaesan01 角島大橋のバス降車は「西長門リゾート入口」で徒歩で渡ろう ブルーライン交通のバスを使った角島大橋の最寄りの停留所は「西長門リゾート入口」がおすすめです。 角島大橋というバス停はないので降りる停留所に注意しましょう。 バスは角島大橋を渡りきってしまう便もあるのですが せっかくの角島大橋とエメラルドグリーンの光景を見ることができなくなってしまいますので注意! 角島大橋は歩いて渡るのがおすすめです。 「特牛駅」から「西長門リゾート入口」までは約15分ほどです。 また、電車とバスで角島大橋に行く場合は 「西長門リゾートホテル」への宿泊が移動を考えると最もおすすめの宿となります。 歩いて渡る角島大橋の絶景を堪能しよう 角島大橋は徒歩でわたる事ができます。 その絶景には驚くと思いますが、歩道がないため注意が必要です。 写真やインスタを撮影するため夢中になって道にはみ出さないようにして車には十分気をつけてください。 ちなみにインスタ映えする場所は、橋をわたる前のから「海士ヶ瀬(あまがせこうえん)」見た光景です。 なので、こちらで写真を撮ってから渡るといいと思います。 また、角島ではレンタサイクルもありますので自転車で島内を回って観光ができます。 角島の観光名所はグルメはこちらにありますので参考にしてみてください。 角島からの帰りはバスで「滝部 たきべ 駅」経由でもOK 角島からの帰りは、来たときと同じように再びバスに乗って「特牛駅」に戻るパターンと 角島からバスで「滝部 たきべ 駅」へ行き経由で下関駅へ向かうパターンがあります。 時刻表と照らし合わせて都合の良い時間の便を乗り継いでゆくのがいいでしょう。 まとめ 角島と角島大橋~列車とバスと徒歩でアクセスする方法 今回は角島大橋への電車とバスの乗り継ぎで行く方法をまとめました。 多くの方は、レンタカーや車で訪れる角島ですが、列車とバスを乗り継いで渋滞に巻き込まれること無く訪れることも十分に可能です。 是非、のんびり旅の参考にしてみてください。 ここから角島まで 料金 角島 大橋 駐車 禁止.

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角島大橋 アクセスと地図(下関からの行き方)|山口県角島 行き方

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1京都三条大橋からJR草津駅まで 1京都三条大橋からJR草津駅まで 平成26年11月15日(日)9時20分、起点京都三条大橋より出発。 擬宝珠の刀剣傷跡は1864年(元治元年)6月5日、 幕末における新撰組の尊攘派襲撃事件である池田屋事件のときのもの。 このとき、9名が斬死したという。 広重の絵と現地を合わせるが、絵は東山の配置が? いや、橋北西詰めのスターバックスコーヒーから撮れば良かったと後で後悔。 橋を渡ったところに「高山彦九郎、皇居望拝の像」があった。 高山(1747〜1793年)は群馬県の出身で、18歳のとき 以来、5回上洛したが、京都に出入りするときはこの銅像のように京都御所に向かって拝礼したという。 明治維新の勤皇の志士 たちは彦九郎を心の鏡と仰いだという。 三条通りをずっと東へ歩いていく。 白川の流れは京都らしい風情があって良い。 ここ白川のほとりに明智光秀の首塚があった。 小栗栖の竹薮で農民に襲われて、光秀の首を家来が落とし、 知恩院近くまで来たが、夜が明けたため、ここに首を埋めたと伝えれれている。 隣の和菓子店には光秀饅頭が! 左は坂本龍馬とお龍の結婚式場跡とあった。 右は蹴上のミヤコホテル、知らない間にWESTIN HOTELになっている。 蹴上の浄水場を通りすぎたところに、車石を展示した広場があった。 「平成9年の京都市地下鉄東西線の開業に伴い 廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し三条通りの四車線化及び歩道の整備事業を実施・・・完成を記念して 三条通りの舗石として敷設されていた車石を利用し、往年の牛車道を模した広場を設置する。 」とあった。 ここで三条通から南側の道幅約4mの道に入ります。 上りになっており、三条通りよりも高い位置になります。 分岐点には、はじめて「旧東海道」のサインがありました。 御陵(みささぎ)まで来ました。 ここで再び三条通りを東へ行きます。 旧京阪・京津線は御陵まで地下鉄化されています。 御陵とは、天智天皇山科陵のことでした。 天智天皇(中大兄皇子)は蘇我入鹿を暗殺、645年大化の改新(政治改革)を 行った。 663年の百済を援助した白村江の戦いに敗れ、667年には都を大和から大津へ移し、671年に亡くなる。 JR東海道線の高架をくぐって、三条通りとは別れて、左に行く。 五条別れの道標、「左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛今ぐまきよみず道」「右ハ三条通」。 この道標は,宝永4年(1707)建立, 東海道を大津方面から来た旅人にとって,五条・伏見方面への近道を示す役割を担っていた。 JR山科駅まで来ました。 右は先にもありましたが「車石」です。 説明には「昔の東海道の逢坂山峠と日ノ岡峠は、雨が 降ると、道がぬかるんでしまい、多くの物資を積んだ牛車にとって、通行が大変困難でした。 京都の心理学者・脇坂義堂 は文化2年(1805年)、1万両の工費で、大津から京都三条大橋にかけての約12Kの区間に、牛車専用通路として わだちを刻んだ花崗岩の切り石を敷き並べました。 わだちの中に車輪を入れることにより、牛車の通行は大変容易になった。 」 絵で見ると、一目瞭然ですね。 徳林庵は「山科地蔵」・「目の神さん」とも呼ばれ、盲目の琵琶法師の聖地といわれる。 北へ行くと三井寺観音道。 山科から逢坂山の北部を通り、三井寺に抜ける道があり、東海道と北国街道を結ぶ最短距離 として 利用されていた。 逢坂山の関所を大関と呼んでいたのに対し、その裏道にあたるこの峠越えの関所を小関と呼んで いたことか ら小関越え おぜきこえ という。 今回は、まっすぐに東へ行く。 すると1号線に出ることになる。 陸橋で国道1号線を横断します。 陸橋を下りると、街道らしい風景になってきました。 ここが山科追分です。 「みきハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と彫られている。 横に「蓮如上人」と彫られた碑もある。 奈良街道(左)と東海道の分岐点で、奈良街道に行くと東海道57次の伏見宿につながります。 昔は賑わっていたようだ。 滋賀県大津市に入って、再び、1号線に合流。 名神高速、京阪京津線、国道1号線が並行しています。 月心寺(げっしんじ)。 広重の描いた走井茶屋の跡。 境内には今も枯れることなく走井の名水が湧き出ている 街道を挟んで両側に家々がぎっしり建ち、谷間を埋めており、大津絵や大津算盤、縫い針などの大津特産の土産物を売る店 や茶店がひしめき、旅人と牛馬の往来が多い賑やかな場所に位置していたという。 だが、今はその面影もない。 現在は、完全予約制で精進料理を食べることができる。 特にごま豆腐は絶品らしい。 1号線を横断して、追分駅へ。 ここに元祖走井餅本家の碑がありました。 現在、走井餅は八幡市にあります。 さあ、お腹が減ったので、名物うなぎのかねよで昼食です。 きんし丼2,376円。 ここのうなぎ屋さんの前身は、茶屋だったみたい。 ここが山城国と近江国の国境となっていた逢坂山の関所。 なんと646年に設置されたとのこと。 百人一首第10番「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」これが都(京都)から東へ下っていく人も、 都へ帰ってくる人も、顔見知りの人もそうでない人も逢っては別れ、別れては逢うというこの名の通りの逢坂の関なのだなあ。 蝉丸神社の上社。 蝉丸は延喜帝第四皇子という説あり。 生まれつき盲人だったため、逢坂の関に捨てられたとされる。 昔、ここの風景を油性色鉛筆で描いていたので、この場を借りてアップさせていただきます。 国道1号線を横断し、国道161号線沿いを歩くと、旧逢坂山ずい道東口(旧東海道本線)があった。 日本で掘削された最初の山岳隧道(トンネル)で、外国人技師に頼らず日本人だけで完成させた。 1878年、京都と大津を 一直線で結ぶと長大トンネルを2つ掘削しなければならなかった。 さらに調査で東山の地質が不良だと判明し、東山を避ける形 で現在の奈良線を通って南下し、稲荷駅経由で敷設することとなった。 1879年8月18日京都駅 - 稲荷駅 - 大谷駅間が仮開業。 大谷 - 大津間の逢坂山には隧道を掘らざるを得ず大谷 - 大津間を最短で結ぶ664. 76mが掘削されることになった。 これが逢坂山隧道である。 蝉丸神社の下社。 琵琶の名手・蝉丸が合祀されたことにより、音曲芸道の祖神として信仰を集めている。 札の辻近く。 ここから浜大津まで京阪・京津線が専用軌道から路面を走ります。 おもしろい風景です。 ここが札の辻。 北国海道と東海道の分岐点でした。 昔は、このように賑わっていたそうです。 大津歴史博物館より。 こちらは北国海道。 江戸時代膳所藩お抱えの料亭であった鮒寿司の老舗と広重の絵。 大津祭の曳山は有名だそうで。 さて、旧東海道を東へ進みます。 しばらく歩くと、大津事件の場所がありました。 京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食を摂った後の帰り道、人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた 滋賀県警察部巡査の津田三蔵(天津木村似)が突然サーベルを抜いて斬りかかった。 ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ 込んだが、津田はニコライを追いかけなおも斬りかかろうとした。 ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。 大津事件当時の風景と現在。 老舗のお店。 左は饅頭屋、右はすだれ屋。 JR大津駅あたりまで来ました。 京阪石山坂本線を越えたところに、義仲寺がありました。 義仲寺の名は、平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍に 追われてこの近くの粟津の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲をここに葬ったことに由来。 義仲の側室 巴御前の塚もあった。 以下の説明があった。 「妾の巴は義仲と共に討ち死にの覚悟で此処粟津に来たが、逃げろと言っても聞かず、再三の説得に 「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、敵将恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ちのびた後、 鎌倉幕府に捕らえられた。 和田義盛の妻となり、義盛戦死のあとは尼僧となって各地を廻り、当地に暫く留まり、亡き義仲の 菩提を弔っていたという。 それから何処ともなく立ち去り、信州木曽で90歳の生涯を閉じたという。 江戸時代中期までは木曽義仲を葬ったという小さな塚だったが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉(1644-94)が度々訪れ、 のちに芭蕉が大阪で亡くなったときは、生前の遺言によってここに墓が立てられたと言われている。 境内には、芭蕉の辞世の句である 「旅に病て夢は枯野をかけめぐる」など数多くの句碑があった。 写真左は、芭蕉の椿の杖。 湖岸はすぐそば。 膳所駅近くまで来ました。 京阪・瓦ケ浜駅あたりまで来ました。 この松の木は広重の近江八景の「粟津晴嵐」にも描かれた松の木の生き残りで、今では3本のみを残すのみとなったそうです。 自動車の排気ガスや工場の進出による公害などで立ち枯れてしまったとのことです。 そういや周辺は日本電気硝子やルミナス セミコンダクターなどの大きな工場街でした。 左は当時の東海道です(MBSより)。 悲しいですね。 右は広重の近江八景の「粟津晴嵐」。 地元は松の木の復活を願っているのですが、 行政側は道路管理上、困難とのことで、湖岸のなぎさ公園に松林を再現しているとのことです。 JR東海道線のガードをくぐり、またも京阪線の踏切を渡ります。 石山あたりまで来ました。 南下してきましたが、東方向へ向かいます。 京阪・唐橋前駅まで来ました。 瀬田川に架かる唐橋。 宇治橋、山崎橋とならんで日本三古橋の一つとされる。 瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上 の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。 古くは壬申の乱(671年)、大友皇子と大海人皇子の 最後の決戦場となった。 大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ。 近江八景「瀬田の夕照」 せたのせきしょう 歌川広重。 現在の橋は1979年に再建され、クリーム色になったが、2012年の 塗り替えの際、朱色が良いとかの色論争があり、結局、唐茶色に決まったが、微妙な茶色、歴史のある橋だけに少し違和感を感じた。 橋を渡ったところに、たにし飴屋があった。 羊羹も売っていた。 たにしの形に似ているからたにし飴という。 ニッキ味だった。 JR瀬田駅あたりに、京都出発以来、初めて一里塚跡を見かけました。 月輪池にある東海道立場。 立場とは宿場と宿場の間にあって 、旅人や人足、駕籠かきなどが休息する場所のこと。 茶屋等の店が軒を連ねて賑わっていた。 土盛りがあって、木があって、いかにも一里塚らしいですが、確か、何も書いてなかったような。 野路の地名は平安時代末期にみえ、平家物語にも出てくる。 鎌倉時代には源よりともが上洛に際し、野路での逗留があったなど宿駅として 武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝であったが、後年、草津に宿駅とし ての座を奪われてしまった。 またここは「野路萩の玉川」といって、十禅寺川の伏流水が清らかな泉になって湧き出て、あたり一面咲き匂う 萩とあいまって、その優美な風情は人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵に描かれていた。 近年は泉も枯れたが、住民が当時の 面影を幾分なりとも復元したとのことである。 もう日が暮れてきそうになってきた。 早足で歩いていたが、右の1号線との合流箇所で迷ってしまった。 焦っていたのか、この地図と現地とがどうも合点がいかず、迷ってしまった。 このラーメン店のところで1号線を横断し、北東に伸びる旧道を進んでいきます。 ここが広重の草津の立場が描かれた場所です。 現在は瓢箪屋さんとのことで、当時は名物うばが餅屋でした。 草津川の矢倉橋を渡り、伯母川を渡ります。 草津本陣は16時30分までに入らなければ閉まってしまいます。 急がねば。 道灌という酒蔵がありました。 太田酒造はあの太田道灌が先祖とのことで、ワインも造っておられるのだが今回は割愛。 なんとかぎりぎり、16時30分前に草津本陣に到着しました。 寛永12年(1635)に創建されたが後に焼失し、 膳所藩主本多家の「瓦ヶ浜御殿」を拝領したものといわれ、関札、大福帳(宿帳)など貴重な資料が残されている。 忠臣蔵の吉良上野介や浅野内匠頭、皇女和宮、シーボルト、新撰組の土方歳三などが泊まったと記録がある。 左はお殿様の寝室です。 本陣から、しばらく行くと中山道との分岐点があります。 真っ直ぐ(北)行けば中山道、右(東)へ曲がれば東海道。 左中山道、右東海道の常夜灯。 本日総距離32.9キロ(歩行時間6時間56分)、焼き鳥屋でビールを飲んで帰ります。

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