大腸 が ん 闘病 記。 大腸がん体験記

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大腸 が ん 闘病 記

おなかがおかしい。 三度も便所へ行く。 この感覚は普通と違う感じがしたが、これが症状の進行途中だった。 病院へ行ってみようと思った。 ただ、外科より内科に見てもらいたくて初診のように問診を受け待合廊下で待っていた。 そしたら、外科から名前を呼ばれ、「あれっ?」と少々不満に思った。 と言うのも、胆のう摘出以来外科には、3ヶ月に一度予約通院している。 術後の経過観察が主で、高血圧を理由に薬を処方されているので、休まず薬をもらいにいかなくてはいけない状況がある。 で、外科のY先生が「今日はどうされましたか?」と聞かれたので、左下腹部を指し「ここが痛いんですが。。 」と言うと、そこ以外の腹を触診して「ここは痛くないですか?」「痛くないです。。 」(なぜ痛いところを見ないんだぁ?) と、不思議に思いながら言われるがままに、「整腸剤を出しておきます」と簡単にすまされた。 医者が言うので安心して帰った。 笑 それから数ヶ月過ぎた夜中、おなかに違和感を感じてトイレに行った。 3回も起きた。 で、3日目の夜中とうとう排便しようとすると、痛みが出て排便に支障がでてきた。 朝一番の血便もあった。 4日目の夕方、日曜日だったが、恐らく今晩は痛みで眠れない予感がしたので、救急外来で痛み止めをもらいに行った。 先生に明日必ず診察に来てくださいと言われた。 今度は内科で見てもらうぞ!と思い、待合廊下で待っていると、内科4番から呼ばれて診察を受けた。 検査結果を見ながら「炎症反応が出ています」 と言われて触診を受けたが、若い先生だったので判断が難しかったのかベテランの先生に診てもらうので、内科2番に回って下さい、と看護師の 指示に従った。 ベテランの内科の先生が検査結果を見ながら、スケッチを書いて説明してくれた。 S状結腸の部分に炎症が見られるので腸炎か、或いは腸壁に 小部屋を作り便がたまり炎症をおこしているらしい。 患者の私に気を使って「大腸がん」とはあえて言われなかった。 無用な心配をさせない配慮だと思う。 私は別にありのままでよかったのだが。。。 結論は「今から即入院して下さい」との事。 え、えええ、急に言われても仕事の段取りがあるので。。 、と言いながらも病状からして即入院は正解だと理解した。 で、すぐその日に入院した。 外科のY先生の名誉のために書いときます。 また担当医が外科に変わる事も言われて、やはり「手術になるな」と直感した。 以前、胆のう摘出の経験から、メモをコピーしてそろえたので参考になった。 座る事により背中の痛みが和らいだ。 それから横になり眠りについたが、背中の痛みが気になり寝返りを 繰り返すも、とうとう我慢できずに、看護師にベッドを起こしてもらい 座ったら痛みが和らいで、座ったままうたた寝していた。 再度、眠りにつくが背中のいたみが気になり熟睡はできなかった。 このへんが一番つらい時間帯だった。 だから痛みを我慢せずに痛み止めを注射してもらえばよかったが、なぜか我慢してしまった。 ステージ2のようです。 リンパ節への転移はなかった。 念のためにゼローダ錠300を半年間服用する事にする。 また背中を踏んでもらったら痛みが緩和された。 手術の1ヶ月前には ・便が細くなった。 ・血便が朝一番に見られた。 ・おなかがひんぱんにグーグー鳴り出した。 ・横になって休むと急に重苦しい疲れが全身ををおおった。 その時は冗談に癌の影響かも知れないと思いはしたが、まさか本物だったとは。。。 最後に 検査入院が1週間、手術後1週間の計15日間の入院生活だったが、関係者のみなさん全員の方が、「たいへん優しい方」ばかりで快適な入院生活を過ごせました。 事務員、看護師、掃除のおばちゃん、リハビリの兄ちゃん、医師、また入院患者のみなさん全員の方が「思いやり」がありました。 おかげで軽快な回復を遂げました。 ありがとうございました。 小田新吉 今後は 癌細胞の他臓器への転移の推移を経過観察しながら、対策を立てていくので、病院とは長い付き合いになると思う。 最悪は死に至る可能性もある。 結末がどうなろうとも運命と思い、ありのままを受け入れなければならない。 死ぬ事が怖くない訳ではないが、生きるも死ぬも、神のみぞ知る運命であるので、ジタバタしてもはじまらない。 今まで通り好きな魚釣りを楽しみながら、天命をまっとうしようと思う。 願わくば母80才より後に死ねれば本望だが。。。 前の日の夕方から絶食して、朝から検査を受ける。 本日は4人(若い女性1人、私59才、男65才、男72才)の方がトイレの前で腸内清浄をした。 女性の方は「正」(トイレの回数)が異常に多く、他の方は12回前後で看護師のOKをもらった。 みなさんで世間話をしたり、自己紹介などをしながら時間をつぶすなかで、男65才の方が心配そうな話をしてきたので、手術が初めてなのか?と思い、私の上記の入院生活を得意に話していたら、 何と、この方は3回の大手術を体験され、腸内爆発で1か月の入院と、意識不明の大変な体験をされ、腹の傷も3回切腹されたそうで、私の予想をはるかに超えていた。 お互いの腹の傷を見せながら、2回目の切腹はへその反対側を切り、3回目は傷の上を切ったらしい。 私は大変勉強になり、人間の体の頑丈さを知った。 生死をさまよった人間は精神的にも強くならないと、生きられないので、もう、開き直るしか道はない。 たくましく生命の炎を燃やすしかない。 腸内カメラの検査はだいたい30分で終えるが、私は1か所ポリープが見つかり、ついでに切除してもらった。 5ミリ以下と小さかったので簡単に、痛みもなく取れた。 前日にポリープがあれば切除し、念のために1泊するので準備をして来るようにと、説明を受けていた。 説明を受けた通りになったので1泊した。 4人部屋だったが、明日すぐに退院のためみなさんには、あいさつは失礼と思い止めて、朝、先生の問診を受けて退院した。 ポリープ 切除後 振り返れば、ポリープが出来た時は、何か体の節々が傷んだ感じがあり、何か体のどこかの異常は感じていた。 でも、老化現象だろう?!とか、運動不足かな?とか思い、またどこかで開き直った心境があり、「なるようになるさ」と覚悟があるので、どうなろうとも心配はしない事にしている。 (笑) そんな楽天的なせいか、腸内は快調で食事も大食いの傾向にあり、体重も増えてきた。 気を付けて食事量は管理しないといけない。 運動もサンドバックを10分ぐらいドつく程度で汗もかかないが、そのうち汗を少しかくぐらいは運動したいと思う。 調子にのって酒を飲んでいたら。。。 忘年会で腹いっぱい酒を飲んでみた。 飲めば飲めるものだが、やはりアル中の癖が出てしまい、毎日少しづつ飲む誘惑に負けそうになる。 気づいて毎日飲むのは止めたが、正月に自分の還暦祝いをして吐くまで飲んだ。 その後ももらった酒が無くなるまで数日飲んでいたら、体調が少しおかしくなってきた。 (肝臓と膵臓に違和感あり) またまた気づいて酒を飲むのを止めた。 一度肝臓を悪くしたら簡単に元には戻らないかも知れないが、節制すればそれなりに体が楽にはなる。

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大腸がんブログの闘病記まとめ10選

大腸 が ん 闘病 記

大腸がんにかかる人は間違いなく年々増えている。 肉食を中心とした食生活の欧米化だけではなく、高齢化も原因とのこと。 ・がん全体の罹患数では、約100万例弱。 ・部位別の罹患数で大腸がんは135,800例で、肺がん、胃がんを抜いて1位。 ・部位別死亡数でも、大腸がんは50,600例で、肺がんに次いで2位。 と言われている。 【国立研究開発法人国立がん研究センター 2015年予測より】 その辺りのことは、ニュース等で目にしていて何となくは知っていた。 但し、他人事だった。 ・大腸がんの罹患率は40代から増え始め、60代に入ってから急激に増加する。 ・男性のうち、11人に1人が一生のうち、大腸がんと診断される。 ・大腸がんの部位別発生率は、直腸が34. とのことらしい。 【日本医師会サイトより】 自分はまだ40代後半。 がんなんてそう簡単にならないだろう。 という何の根拠もない自信?があった。 それだけに、自分がS状結腸がんと診断された時はショックだった。 考えてみると、 ・母親が以前、大腸がんにかかったことがある。 ・健康診断で【便潜血要精密検査】になったことがある。 ・食生活に多少は気を使っているが、肉類・油物・甘い物が好物である。 かかっても全く不思議はない。 しかし、これは今だから言えること。 大腸がんになる前は、 ・がんは必ずしも遺伝する訳ではない。 ・便潜血と言ったって、わずかな血液でも反応するらしいから、ただの痔だろう。 ・肉、油、糖がいくら好物とは言え、暴飲暴食している訳ではない。 などと考えていた。 全て自分都合の解釈をしていたら、健康診断の意味がない。 今回も貧血にならなかったら、病院に行くこともなく、どうなっていたか分からない。 今回つくづく思った。 精密検査は必ず受けましょう。 術後しばらくは腸閉塞等の恐れもあり、食事の内容にも1~2ヶ月は相当注意しなくてはならない。 私の場合はS状結腸だったが、もし直腸の場合、人工肛門による便意のコントロール等の問題で さらに数ヶ月以上、職場への復帰には時間がかかるという。 これが精密検査(大腸内視鏡)だと、 【入院期間】:なし(通院でせいぜい半日) 【検査費用】:約7,000~8,000円程度 もしポリープ等が見つかっても、病理検査や内視鏡による切除で、 【入院期間】:なし(日帰り手術) 【検査費用】:約20,000~30,000円程度 この差は想像以上に大きい。 しつこいですが、 精密検査は必ず受けましょう。

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大腸がんブログ

大腸 が ん 闘病 記

はじめに このブログ記事を読んでくれている人は、どんな形であれ「がん」と関わらざるをえなかった人たちではないでしょうか。 今闘病している人、身内ががんになってしまった、自分ががんになってしまったなど、様々な状況でがんと向き合っている人たちだと思います。 はじめに言っておきたいことがあります。 娘や妻の様になると思わないで下さい。 決して自分で命の期限を決めないで下さい。 あくまでこういうケースもあるということです。 私は医療従事者でも無いどこにでもいる中小企業の営業マンで、医療的な知識はありません。 でも、家族でがんと戦ってきた中でどう接すればよかったのか、愛する人と限られた時間を生きることの意味を、私なりにみつけてきたつもりです。 そんな素人の文章ですが、どうぞお付き合い下さい。 娘の闘病記と同じく、少しずつ書き足していきますので、ちょこちょこ見に来てくださると嬉しいです。 娘の闘病記はこちらです。 闘病を通して、あってよかった、介護が楽になった便利なアイテムがいくつかありました。 参考にしてみてください。 参考 妻のがん闘病記ブログ• 症状と発覚まで。 余命宣告• かけがえのない時間• 人はいつか立ち直れる 妻のがんが発覚したときは既に 末期で余命5ヶ月でした。 まだ体力がありましたから、できるかぎりの場所に連れて行き、可能な範囲で好きなものも食べてもらいました。 大好きなスポーツ観戦にいったり、アミューズメント施設にいったり、ドライブしたり。 妻と過ごした最後の数ヶ月は一生分の愛情を注げたと、今は思えます。 症状と発覚まで 「おなかが張っている気がする」妻が異変を私に伝えた第一声でした。 元々便秘気味で、痔があったこともあり、血便がでても「また痔がでたのかな」と市販薬を塗って過ごしていたようです。 そしてある日、腹部がねじられるような強烈な腹痛が起こり、至急病院に行きました。 腹痛の正体は 「腸閉塞」だったのですが、その腸閉塞を起こしている原因が 「大腸がん」でした。 既に 末期で、前向きな治療ができない状態でした。 私たち夫婦は言葉を失いました。 そして同じ「がん」で失った私たちの愛娘のことを思い出していました。 また「がん」が私の大切な家族を奪おうとしている。 このときの詳細をこちらにも書いています。 入院 入院は手術の2日前になりました。 入院して手術に向けての精密検査を受け、手術の説明、抗がん剤や緩和ケアなどの今後のできうる治療の説明などでした。 手術もがんを取りきれるかわからず「厳しいと思ったらそのままおなかを閉じます。 手術が早く終わったらそういうことです」とも言われました。 妻にはまだ末期がんの可能性についてはこの時点では言いませんでした。 手術や抗がん剤治療の結果によってはよくなるかもしれない、という希望をわずかながら持っていた、持っていたかったからです。 トイレに行った妻は下血をみて驚いていました、そしてこれだけの下血に関わらず痛みを伴わないことへの不気味さも訴えていました。 手術と余命宣告 手術は悲しいことに1時間弱で終わりました。 それは、 がんが手術によって除去不可能だったこと、すなわちもう妻は長くないということを示していました。 「余命はもって5ヶ月。 緩和ケア中心に、残された時間、ご家族と思い出を作っていってください」 先生は、まだマスクやゴム手袋をしたまま、今後の説明をしてくれました。 しばらくして麻酔から目を覚ました妻が私に尋ねました「手術はどれくらいだったの?」 1時間足らずだったとは言えなかった。 「そうだね…結構かかったよ」と答えるのが精一杯でした。 余命宣告については、妻には告知しないことに決めました(このときは)。 それから、妻に悟られないように、家族や周囲に話をして、思い出を作れるように動きました。 このときの私は、再び家族を失う恐怖と戦っていました。 そんな中、同じ病棟で知り合った信吾君。 信吾君は悪性脳腫瘍と闘いました。 彼の明るさと前向きな言葉に何度救われたでしょうか。 彼の戦い抜いた日々を残していきますので読んでください。 かけがえのない時間 おなかをあけて縫っただけの手術だったので、10日ほどで外出が許可されるようになりました。 この外出が妻は本当に楽しみで、大好きな映画をみたり、植物園に行ったりと思いつくままにいろいろな場所にいきました。 同時に抗がん剤治療を開始していたので、退院はできませんでしたが、週4~5日は外出許可を貰って外出していました。 手を繋いで買い物行くようになったのもこのころです。 発病前は妻に言われても恥ずかしくて断っていたのですが、 「もうこの手を繋ぐ時間は限られている」と思うと…。 あの手のぬくもりを私は忘れません。 外出して喜ぶ妻の笑顔をみるたびに 「このまま時間がとまればいいのに」と何度思ったでしょうか。 夫婦になると、愛情表現や感謝の言葉を伝えるのがおろそかになりがちです。 どんな形で別れのときが訪れるかわかりません。 愛する人への愛情表現は積極的に行って欲しいと思います。 「愛しているよ」「いつもありがとう」「結婚してくれてありがとう」「幸せだよ」 いつでも伝えられる、わかってくれているからわざわざ言う必要がない、そう思わないで下さい。 どんどん伝えましょう。 伝えられる時、伝わる時は限られています。 これを読んでくださっている方、明日にでも、今すぐにでも愛する家族に感謝と愛を伝えてください。 伝えられなくなってからでは遅いのです。 本人への告知 外出許可を沢山もらい、いろいろなところに妻と行きました。 それと同時に妻は「がん治療がこんなに外泊多いわけがない」と勘ぐるようになってきました。 話さなければいけない、と私は覚悟をしました。 主治医が「どうしても話せないなら、私が話をします」と仰ってくれましたが、夫として、私が話しますと告げました。 『残念ながら手術できる状態ではなかった。 余命ももって数ヶ月(明確な数字は言えませんでした)。 でも医療は格段に進歩している。 一緒にがんばろう』と。 妻は「やっぱりね…でもはっきりきけてよかった。 死ぬのは怖くないよ。 あの子(娘)に会えるんだから」と寂しそうに病室の窓に視線を向けてつぶやきました。 そして、 私が帰ったあと、ベッドの中で声を押し殺して泣いていた…と看護婦さんからききました…。 娘の時と同じだ。 私は、何もできない。 何もしてやれない。 せめて、妻の前では常に笑顔でいよう。 そう心に決めました。 このときに妻が書き留めていたノートや話をした内容を書き留めました。 そして同時に、妻に離婚を告げられました。 そのときのことを書きました。 2回目の新婚旅行 いよいよ外出許可がもう下りなくなる(病状が数字として悪くなってくる)傾向がでてきたとき、一度だけ仮退院しました。 そのときに一度だけ飛行機に乗って旅行にいきました。 妻がどうしても行きたがっていた新婚旅行先でもあった沖縄でした。 色々と制約はありましたが、妻は「2回目の新婚旅行だね」と笑ってくれ、本当に心に残る思い出となりました。 もうほぼ打つ手はないと言われても、家族としては 一縷の望みにすがりたいのは当たり前です。 気休めでもいい1日でも外出許可がでる日が延びればと、これをネットで見つけ、早速買って妻に飲んでもらいました。 わずかではありますが、妻の顔色が良くなり、妻自身も「調子が良くなった気がする」と言ってくれました。 また、 家でも簡単に作れる野菜スープ、果物ジュースも毎日作って一緒に飲みました。 外出許可がでた期間が予定より伸び、2度目の新婚旅行ができたのはこれらのおかげだと思っています。 永眠 妻は日々強まるがんの痛みに対し、鎮静をかけて欲しい、眠るように逝きたいと言っていました。 その言葉を尊重し、モルヒネの量を増やしていくことで次第に眠っている時間が増えていきました。 鎮静をかける前、これまでお世話になった人たちにお礼を言い残し、鎮静をかけていきました。 本当にここまでよく頑張ってくれました。 鎮静をかける前、こう言いました。 「Makiを失い、私もがんになった。 がんに翻弄された人生だった。 ねえあなた、私悔しい」と。 搾り出すように言ったその言葉は、今も私の耳にこびりついています。 最後は眠るように息を引き取りました。 看取りに関しては悔いはありませんでした。 ただ、ただ、生きていて欲しかった。 葬儀 葬儀は生前の妻の意向でかざりっけのないごくシンプルなものになりました。 お世話になった方々へ向けた遺言の手紙を読み上げたときは嗚咽で言葉になりませんでした。 友人と旅行にいったこと、恩師との思い出、そして私との出会いと娘を授かったことの感謝…。 苦しい中、死の恐怖の中でさえも、 周囲への感謝の気持ちを持ち続けた妻の胸中…察するに余りあります。 出棺時に大好きな演歌歌手の曲と、娘との思い出の曲であるポップス曲を流してもらいました。 納骨を済ませ、病院への支払いも済ませ、家に帰ってくると「おかえり!」と言ってくれる人がいない。 犬と私だけの生活。 誰もいなくなってしまった。 ただただ喪失感にとらわれ、これから先数ヶ月の記憶は曖昧です。 ただ仕事して食べて寝る。 それだけのルーチンワークでした。 そして、 仕事すらも休みがちになっていくのでした。 葬儀もそうですが、 故人の遺品整理をすること、これは私にとって非常につらいものでした。 遺品整理は妻の意向でもありましたが、 服1着、ハンカチ一枚に思い出があり、ひとつひとつ手にとるたびに涙があふれて手がとまり、作業になりませんでした。 こちらにそのことについて書いています。 人はいつか立ち直れる 妻が旅立ってしばらくの間の記憶は正直ほとんどありません。 仕事も休みがちになり、ふさぎこんでいたところを妻の親戚の支えで、がん家族相談センターなどのカウンセリングを受けるようになりました。 ふさぎこんでいても妻は帰って来ない、あの生活は戻らないのは頭ではわかっていました。 しかし娘を過去に失い、そして今、妻まで失った私には 今を生きようという覇気がありませんでした。 社会復帰という意味で、立ち直るのは、周囲の協力のおかげで時間はかかりませんでした。 しかし本当の意味での立ち直りにはまだ至ってないと感じています。 見かねた周囲の人が縁談を持ちかけてくれたこともありました。 でも 妻や娘の代わりなんてどこにもいないんです。 悲しみというのは陥った人じゃないと分からないものです。 時間が解決するという言葉がありますが、解決しないどころか悲しみが深まるものもあります。 それは仕方がないんです。 こうやってブログに思いや感じたことを残すたびに、少しずつですが、家族の遺品をみたりすることができるようになりました。 これも私にとって立ち直るために必要なことなのかもしれません。 読んでくれてありがとうございます。 母を2ヶ月前に肺がんで亡くしました。 検査した時にはもう手遅れで「あと2~3日でもおかしくない。 」と言われたけど、1年と5ヶ月生き延びる事が出来ました。 最後の5ヶ月は「今後をどうしますか?」って曖昧な言い方で「もう治療方法がない」と知らされ、自宅で在宅介護をしました。 余命は言われなかった。 きっと先生の優しさもあったと思うけど、全身に回った癌にどの程度持つのかははっきりしないのもわかります。 亡くなる一月前にせん妄の症状が出ました。 祖母(3年前に亡くなってる)に会いに行くと言って出かけようとしたり。 少ししたら看護師さんと話して戻ったり。 そんなに頻繁には起きなくてだから、母は最期まで母だったと思いたいけど。 痛みを取り除くために使ってもらった薬の最後は医療麻薬の強めのやつ。 母は私を、私として認識してたのかもわからない。 寝むるように最後の時まで私を泣かせて亡くなった。 後悔はどうやったら消えますか。

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