さんまのまんま 梓 みちよ。 梓みちよさん死去 こんにちは赤ちゃん永六輔さんとの縁 さんまシャンパン事件 和田アキ子さん確執?

梓さん、強気な性格だった 中尾ミエとは取っ組み合い さんまにはシャンパンぶちまけ― スポニチ Sponichi Annex 芸能

さんまのまんま 梓 みちよ

略歴 [ ] 、福岡女学院高校2年中退でに入学。 同校在学中にのオーディションに応募し合格し、上京し契約する (同校は中退 )。 、『』の今月の歌として発表された 「」(作詞・、作曲・)が大ヒットとなり、同年12月のの大賞を受賞。 また『』にも初出場を果たし、人気歌手としての地位を得た。 また同曲は翌3月ののに採用された。 更には1964年5月に東京都ので開かれた同窓会に招待されて、の御前でこの歌を披露した。 明治時代以降において日本芸能界初の天覧歌謡曲となる。 しかしその後は歌手として人気が一時低迷、の『』まで7年連続出場していたも翌に落選、まで4年間出演出来なかった。 に俳優のと結婚したが、翌に離婚している。 には床に座り込んで歌う「」(作詞・、作曲・)が久々に大ヒット。 同曲で第5回・放送音楽賞、同年末の・大衆賞をそれぞれ受賞し、また『』にも5年ぶり8回目の復帰出場を果たし、イメージ・チェンジを成功させた。 一方、1971年7月から2月まで『』(司会・)の2代目アシスタントを務めていた。 末の『』は、中に流行したの歌謡曲「」を日本語詞で歌唱。 は「」(作詞・、作曲・)が翌にかけてロングヒット。 同曲で1976年末に・編曲賞(編曲・)を受賞し、『』に3年連続で出演した。 、をに移籍。 同年「パートナー」のに採用された「」(作詞・、作曲・)がスマッシュヒット。 、前年の5月に37歳の若さで急逝した・の「」(作詞・、作曲・大塚博堂)をした。 には『』に16年ぶり11回目の紅白カムバック出場を果たし、同1992年6月に亡くなった作曲家・中村八大を偲んで「こんにちは赤ちゃん」を歌唱した。 自身の持ち歌である「こんにちは赤ちゃん」を長年コンサートで自分で封印し歌わなかった(テレビ番組などではその限りではなかった)。 その理由は「この歌は今、私にとって重すぎる」、「いまさらこの歌は私には似合わない」などというものだったが、の40周年記念コンサートでのアンコールの際に「初めて、心からこの歌の素晴らしさを理解することが出来た。 こんな良い歌を今まで歌わなかったのか、情けない」と言い、封印を解き歌唱。 には、「この曲は私にとって世に出してもらうきっかけであり、一番の宝物だから、大切にしよう。 40年かかって、そんな気持ちになれたから、アンコールの最後に、やっと歌えたんです」と明かした。 以後はステージでも必ず歌うようになった。 「こんにちは赤ちゃん」の封印を解いた理由について、梓自身は「での一世、二世の方々の前で(「こんにちは赤ちゃん」を)歌った時に皆さんが涙を流しているのを見て後悔したから」とも語っていた。 晩年は「良い歌は古い歌でも後輩の歌でも関係なく歌っていきたい」とJポップ、歌謡曲からタンゴ、シャンソンなど幅広いジャンルの歌を歌っていた。 、東京都内の自宅で1月末に死去していたことが公表された。 所属事務所によると、出演番組の打ちあわせで1月29日に訪れたマネージャーが、ベッドの上で亡くなっていた梓をみつけたという。 マネージャーは警察に通報したが、事件性はなく、その場で死亡が確認された。 76歳没。 人物 [ ]• 『』第69回()に出演した時、の失礼な言動に対し怒り、グラスのシャンパンをさんまに対してかけた。 後日謝罪し、さんまにをプレゼントした。 、「こんにちは赤ちゃん」の作詞家・永六輔が同年に83歳で逝去の報道を受け、梓は「突然の訃報にただ驚いております。 最後にお会いしたのは2年前『夢であいましょう』のイベントで、その時は『こんにちは赤ちゃんのアンサーソングを作ろうよ』の話で盛り上がり、お元気な印象でした。 私がデビュー間もない頃に永さん作詞、中村八大さん作曲の『こんにちは赤ちゃん』の曲を頂いた時『ママでもないのにどう歌えばいいんですか?』と泣きそうになりながら聞いた処『いいかい、女性はみんな母性本能があるんだ。 胸に玉のようなかわいい赤ちゃんを抱いていると思って歌えばいいんだよ』とアドバイスを頂きました。 その言葉が昨日のように思い出されます。 永さんなしでは『梓みちよ』という歌手は誕生しませんでした。 感謝の気持ちしかありません。 有難う御座いました。 ご冥福をお祈り申し上げます」と追悼のコメントを発表した。 ディスコグラフィ [ ] シングル [ ]• ボッサ・ノバでキッス/恋のゆきどまり(1962年11月)《キング・レコード》• スカイリング・デイト/グッドバイ・ジョー(1963年2月)• 恋はボッサ・ノバ/すてきなメモリー(1963年3月)• 渚のデイト/ラスト・ダンスを私と(1963年5月)• ヘイ・ポーラ/黒い瞳に青い空(1963年6月)A面 とのデュエット• けんかでデイト/バイバイ・ハイスクール(1963年6月)田辺靖雄とのデュエット• /いつもの小道で(1963年11月)B面 田辺靖雄とのデュエット• 《『』1963年7月の歌。 番組内で募集した譜面の応募総数が1万通を超える大反響となる。 同年11月に発売されたレコードは100万枚を超える大ヒット。 同年、受賞曲となり、翌1964年の開会式行進曲にもなった。 /別れのワルツ(1963年11月)田辺靖雄とのデュエット• ダンケ・シェーン/月光価千金(1964年1月)• 素敵な新学期/さよならデイト(1964年3月)田辺靖雄とのデュエット• /二人で夢を(1964年3月)• ひとりだけの歌/パララン・パン(1964年4月)田辺靖雄とのデュエット• おかあさん/12と13(1964年4月)B面 田辺靖雄とのデュエット• 夢みる想い/ウィッシング・ウェル(1964年6月)• アウフ・ヴィーダーゼーン/二人はステディ(1964年7月)田辺靖雄とのデュエット• リンデンバウムの歌/夕陽が似合う(1964年10月)• 白い想いで/幸福を祈ろう(1964年)• /虹を掴もうよ(1965年4月)• 言えばよかった/ごめんなさい(1965年)• 忘れたはずなのに/笑顔をみせて(1965年11月)• ねむの木の子守唄/おめめがさめれば かあさん(1966年3月)• 《A面 皇太子妃美智子殿下 御作詞》• ポカン・ポカン/憶えているかしら(1966年4月)• 赤いつるばら/白い浜(1966年9月)• キッスして/お嫁さん(1967年2月)• 渚のセニョリーナ/二人の夏(1967年6月)• 恋のギターラ/恋してる(1967年10月)• あなたの時計/ふたりのこころ(1968年2月)• 月夜と舟と恋/夜はバラ色(1968年6月)• 愛せないの/めぐりあうために(1968年11月)• だけど愛してる/夜のせいなの(1969年2月)• 渚のSha La La/熱い愛(1969年6月)• 麗人の唄/愛の新世界(1969年10月)• 朝とブラック・タイ/一年前の街角で(1970年4月)• 売れ残ってます/ナルシズム(1970年9月)• 愛されてます/悲しい旅(1971年1月)• 陽のあたる窓辺/もう来ない明日(1971年6月)• ここに幸あり/約束(1972年1月)• 愛はルフラン/眼が覚めて(1972年7月)• 《番組で特段のクレジットはされなかったが、長期間に渡り『新婚さんいらっしゃい! 』のオープニングテーマとして歌唱した。 /両手で愛して(1974年3月)• 《同曲の大ヒットにより同年末の『』に5年ぶりにカムバック出場》• 淋しがりや/別ればなし(1974年9月)• あかいサルビア/(1975年3月)• よこがお/九月の渚(1975年9月)• 二日酔い/独りあるき(1976年2月)• /雪どけ(1976年9月)• 《A面は翌1977年に作曲・吉田拓郎が『』で》• 女達のキイワード/UP AND DOWN(1977年3月)• ノクターン/ひとり暮らし(1977年9月)• 銀河系まで飛んで行け! /ミストレス(1978年1月)• 《A面は当時の渡辺プロ所属の後輩であるの5枚組BOX『』の収録曲のカヴァー》• 熱帯夜/フィニッシュ(1978年6月)• 信天翁/ミッドナイト・ブルー(1978年11月)• /ビロードの爪(1979年9月)《CBS・ソニーへ移籍》• 《A面は 「パートナー」CMソング》• 淋しい兎を追いかけないで/コーランの恋人(1980年3月)• 小心者/純情馬鹿(1980年8月)• 行きずり-日本の美女たちへ-/思うままの女(1981年5月)• いま、親友/アムール アムール(1981年10月)• 《A面「ロベルト」イメージ・ソング》• /裏面(1982年3月)• 《A面は1981年に亡くなったのアルバム『』(大塚の没後にシングル・カット発売)からの カヴァー》• 恋はウー・ラ・ラ・ラ/愛を散らかしていた(1982年9月)• もっと人生を下さい/女の幻想曲(1983年5月)• 《「もっと人生を下さい」は、系『』のOPテーマ曲で、『』(主演:)ではED主題歌として、テレビでオンエアしていた。 耳飾り/真珠をつけた根無し草 1984年2月• いらっしゃい/サファイア色の午後(1985年5月)• ぬすんでもいいわ-暗闇にぬすむ接吻-/危険な関係(1986年9月)• 横恋慕/シャンペンでこんや破産(1988年11月)アポロン• 《25周年記念作品 両面 阿久悠作詞 A面 吉田拓郎作曲 B面 かしぶち哲郎 作曲》• /TOKYOシンドローム(1992年12月)東芝EMI• 愛の落書き/紫のバラ(1997年4月)バンダイ・ミュージック• Rain愛しくて/まだまだ世の中捨てたものじゃない(2002年) 委託製作 [ ]• 委託EP オリジナル・アルバム [ ]• 梓みちよ デラックス(1968年)• オリジナル・コレクション(1977年12月)• 女が男を語るとき(1979年12月)CBSソニー移籍• リラックス(1980年8月)• いま、親友(1981年11月)• 黄昏のモンテカルロ(1986年11月)CBSソニー《アポロン移籍再発(1987年6月)》• 渚のセニョリーナ(1967年)以下キング・レコード• 二人でお酒を(1974年)• ベスト20(1974年)• ベスト20(1975年)• メランコリー(ゴールデン・スター・ベスト・アルバム)(1976年)• ゴールデン・スター・ベスト・アルバム(1977年)• ベスト(1979年)• ベスト・スター・ダブル・デラックス(1979年)2枚組LP• ベスト16• ベスト14• THE BEST 1980年11月 28AH1098 CBS・ソニー• THE BEST 1981年11月 28AH 1347 CBS・ソニー -CD-• 全曲集(1988年)アポロン 〈The 25th Anniversary〉• ベスト・ヒッツ(1989年)キング・レコード• ベスト・ヒッツ・コレクション キング・レコード• 梓みちよ ベストアルバム(2000年11月)渡辺音楽出版株式会社• 梓みちよCD-BOX(2002年7月)〈キング・レコード時代1963-1978のCD5枚組BOX〉• エッセンシャル・ベスト(2007年12月) Sony Music Direct 〈CBSソニー時代のベスト〉• 決定版2010(2009年12月)キング・レコード• 決定版2016(2015年12月)キング・レコード• 梓みちよ ベスト50(2017年2月)キング・レコード CD3枚組• 決定版2020(2019年12月)キング・レコード ライブ・アルバム [ ]• おかあさんへプレゼント(1966年) 映像作品 [ ]• 梓みちよ パフォーマンス(1983年)• 夢であいましょう(1991年)全5巻VHS• 歌の妖精(2001年)全7巻VHS 出演 [ ] 映画 [ ]• (1962年、)星野洋子 役• (1963年、東宝)牧ミチル 役• (1964年、東宝)主演・会田道代 役(主題歌も担当)• 虹をつかむ恋人たち(1965年、)• (1966年、東宝)お染 役• (1969年、東宝)人魚の風子 役• (1970年、) テレビドラマ [ ]• (1963年4月15日 - 9月30日、)• (1966年3月、)主演• お嫁さん(1)(1966年6月 - 12月、)主演・山縣まち子 役(主題歌も担当)• (1983年8月5日 - 9月30日、)青山早苗 役• 男の子育て日記(1987年6月8日 - 7月3日、)• 第5話(1996年5月11日、日本テレビ)• 第10話(2001年9月5日、日本テレビ)田浦せつ 役• 第39部 第11話「若妻の言えない秘密? -天草-」(2008年12月22日、TBS)お勢 役 バラエティ [ ]• (1971年7月 - 1978年2月、)アシスタント• (1982年6月 - 1983年5月、日本テレビ)金曜アシスタント 吹き替え [ ]• () 人形劇 [ ]• (タコ妖怪) CM [ ]• ラジオ [ ]• 対戦相手の歌手名の 内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある はトリ等を務めた回数を表す。 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。 脚注 [ ] []• Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. 2020-02-03. 2020年2月3日閲覧。 日刊スポーツ2019. 3 2019. 3 lastaccess• astand. asahi. com 2013年7月17日. 2020年2月3日閲覧。 『音楽CD検定公式ガイドブック 下 』CDジャーナル(編)289p• 2013年7月17日 日刊ゲンダイ• スポーツ報知. 報知新聞社. 2020-02-04. 2020年2月4日閲覧。 SANSPO. COM(サンスポ) 2020年2月3日. 2020年2月3日閲覧。 楽天WOMAN 2020年2月3日. 2020年2月3日閲覧。 スポニチAnnex 2020年2月4日. 2020年2月6日閲覧。 2016年7月12日 日刊スポーツ• デジタル「歌手の梓みちよさん死亡」 2020年2月3日.

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さんまのまんま 梓 みちよ

詳細については後ほど触れたいと思います。 梓みちよの死因は何? 所属事務所によると、出演番組の打ち合わせのために1月29日にマネージャーが梓みちよさんの自宅に訪れたところ、亡くなっているのを見つけたと言います。 何か病気を抱えていたのかと思ったのですが、「少し膝が悪い以外は病気一つなかった」そうで、昨年末も元気に仕事をこなしていたそうです。 死因は心不全とみられており、本当に急な不幸だったというわけですね・・・。 心不全というのはそれ自体が病名ではなく、全身に血液を送り出すポンプの役割を担う心臓の働きが不十分になった結果、それによって体の様々な部分に負担がかかり、支障をきたしている状態を言います。 最近、とくに高齢者で、収縮機能が保たれた心不全(拡張不全)が多いことがわかってきました。 血液を取り込む力が衰え、静脈や肺、心臓などに血液が溜まりやすくなってしまうもので、通常の検査では見つかりにくく、決め手となる治療法が限られるといった特徴があります。 また、高齢者の心不全では、こうした 自覚症状がはっきりと現れにくく、息切れなどの症状があっても、「年のせいだから仕方ない」「体力が落ちただけ」と見過ごしてしまいがちです。 放置したまま重症化してしまい、夜中に呼吸困難を起こして救急車で運ばれてくる患者さんも少なくありません。 出典: いくら梓みちよさんが若々しかったといっても76歳ですから、他の人から見ると元気に見えていても、上記のように自覚症状のないまま心臓機能が低下していたのかもしれませんね。 なお、葬儀については遺族の意思に基づき、2月2日に近親者のみで執り行っているということです。 梓みちよの歌や若い頃【画像】 数々の名曲で有名な梓みちよさんですが、若い人にはあまり馴染みがないかもしれません。 そこで、梓みちよさんの若い頃の画像を集めてみました。 宝塚音楽学校時代の幻の画像 まず、こちらは宝塚音楽学校時代の梓みちよさんです。 今となっては幻の写真とも言える1枚ですね。 梓みちよさんは宝塚音楽学校で声楽やバレエ、日本舞踊など音楽の英才教育を受けていました。 また、それだけに止まらずタップダンスの個人レッスンを受けるなど、貪欲に自分を磨いていたそうです。 そんな努力の甲斐もあり、80人ほどの同期の中でもトップクラスの成績だったといいます。 ボッサ・ノバでキッスでデビュー そして、宝塚音楽学校に在籍中、渡辺プロダクションの社長に出会い、歌手デビューが決定。 わずか1年半で中退することになりました。 梓みちよさんにとってまさにここが人生のターニングポイント。 約1年間のレッスンを受けた後、1962年に「ボッサ・ノバでキッス」でデビューします。 ちなみに、キャッチフレーズは「ボサノバ娘」だったそうです。 19歳当時「こんにちは赤ちゃん」がメガヒット 1963年、「夢で会いましょう」の今月の歌として発表された「こんにちは赤ちゃん」(作詞:永六輔、作曲:中村八大)が大ヒットし、その年の第5回日本レコード大賞を受賞します。 さらに、NHK紅白歌合戦にも出場し、時の人となりました。 その他の梓みちよさんが若い頃の画像 他にも梓みちよさんの若い頃の画像を紹介します。 梓みちよ、さんまのまんま出演時にシャンパンぶっかけ 梓みちよさんが明石家さんまのテレビ番組「さんまのまんま」に出演した際の話です。 梓みちよさんのことが好きだというさんまが彼女の名曲である「二人でお酒を」や「メランコリー」のタイトルを思い出せないでいると 「好きだったら思い出せるはず」 とシャンパンをぶっかけるという放送事故級の回がありました。 しかも、 1回ではなく収録中に5回もシャンパンをぶっかけたそうです 笑 さすがに視聴者から苦情が殺到したようで、ちょうどこの頃から梓みちよさんのテレビ露出が減ったこともあり、この騒動が原因で干されたのではないかとの噂も流れました。 後に、梓みちよさんがさんまに謝罪したこともあり、和解。 以後はさんまのまんまの過去シーンを振り返る回でも使われ、ネタになっていました。 ちなみに、その時期にテレビ露出が減った理由は、干されたのではなくディナーショーの繁忙期だったからということです。 梓みちよは和田アキ子をいじめていた? 和田アキ子さんは以前、自分が新人だった頃に先輩歌手からいじめられていたと明かしています。 名前こそ出しませんでしたが、ネットでは 「いじめていたのは梓みちよでは?」と噂になりました。 ただ、あくまで憶測の域を出ないものであり、噂された理由としては• 共演が少ない• 先輩歌手として何人か名前が上がった中の一人• 和田アキ子に負けない気の強さ といった程度のものです。 梓みちよは東尾修と不倫していた? 梓みちよさんは1971年に俳優の和田浩治と結婚しましたが、翌1972年には離婚しています。 離婚後は元夫のことを 「せいぜい同棲までの男だった」と侮辱したことで、和田浩治も反論。 結局は泥沼の離婚劇のとなりました。 その後、 梓みちよさんは元プロ野球選手で球界きってのモテ男だった東尾修さんとの交際が報じられます。 東尾修さんは妻子がいましたので、交際が事実であれば当然不倫となりますが、東尾修さんは終始ノーコメントを貫きます。 一方で梓みちよさんは東尾修さんとのことを聞かれると 「大人の関係」と不倫を認めるかのような大胆な発言で世間に衝撃を与えました。 デビュー当初は清純派というイメージで売っていた梓みちよさんですが、10代で飲酒や喫煙を行うなど、本当の姿は世間のイメージとは真逆でした。 そのギャップに悩んでいた彼女にとって、このような破天荒な言動は、遅くして自分らしさを解放できた証だったのかもしれませんね。 ちなみに、東尾修さんの奥さんは二人の関係についてあまり追求はせず、ひたすら耐えて旦那が帰ってくるのを待ってました。 そんな母の姿を見かねた娘の東尾理子さん(現・石田純一さんの奥さん)が、梓みちよさんの家に、 「お父さんを返してください!」 と殴り込みをかけたそうです。 そんなこともあり、それ以降は2人が会う頻度は減っていったとのことです。 プロフィール• 亡くなった原因• 歌や若い頃• さんまにシャンパンをぶっかけた事件• 和田アキ子いじめ疑惑• 東尾修と不倫 について書いてみました。 梓みちよさんの歌声がもう聴けないのは本当に残念でなりません。 心よりご冥福をお祈りいたします。

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「こんにちは赤ちゃん」の歌手、梓みちよさん死去 年齢・死因・旦那さんは誰?

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梓みちよと明石家さんまの騒動とは?現在は化粧品をプロデュース! 梓みちよが明石家さんまに激怒!それが原因で干された?! 梓みちよは、1960年代の日本歌謡界に彗星のごとく現れた歌手。 「さんまのまんま」に出演した際、梓みちよは収録中に計5回も明石家さんまにシャンパンを浴びせました。 大ヒット曲「二人でお酒を」や「メランコリー」のタイトルを思い出せない明石家さんまに対し、「好きだったら思い出せるはず」ときつく詰め寄る梓みちよ。 そして、ついに「知らんわ!」と白状した明石家さんまの顔にシャンパンを浴びせました。 その他にも、オンエアはされなかったものの、当時噂となっていた東尾修との不倫生活について明石家さんまに突っ込まれてさらに激怒したとか。 番組放送後には、視聴者からの苦情の電話が殺到したと言い、ちょうどこの頃からテレビで見かけなくなったことから「騒動によって芸能界から干された」という烙印まで押されることに……。 後に、梓みちよが明石家さんまに謝罪して和解したことから、この騒動は「さんまのまんま」名場面集として何度も取り上げられる名シーンになりました。 「干された」という噂も、真相は、ディナーショーの繫忙期と重なっただけのようです。 梓みちよが化粧品「梓プラチナローズジェル」をプロデュース! 昭和の歌謡曲を特集する歌番組や、自身の人気曲を織り交ぜたディナーショーで、現在も歌手として精力的に活動している梓みちよ。 そんな梓みちよは、新たな分野でも成功をおさめています。 それが、かねてからの夢であったという化粧品のプロデュースです。 若い頃から芸能界で仕事をしてきた梓みちよにとって、化粧品にまつわる悩みは尽きないものでした。 舞台メイクを落とすたびにひどい乾燥に悩まされてきた梓みちよは、自身の経験から化粧品「梓プラチナローズジェル」をプロデュースします。 「梓プラチナローズジェル」は、化粧水、乳液、美容液、クリームの役目を果たすオールインワンジェルで、顔だけではなく全身にも贅沢に使えることもセールスポイント。 梓みちよは、湯船につかっている間に、ジェルを顔とデコルテに塗ってパックとして使用するという美肌術も紹介しています。 梓みちよの「メランコリー」ほか人気曲は?結婚、離婚を経て20年以上も不倫生活していたお相手とは 梓みちよは宝塚音楽学校出身の実力派歌手!「メランコリー」ほか人気曲について知りたい! 1943年6月4日、福岡県出身の梓みちよは、福岡女学院高等学校の1年生を修了後、宝塚音楽学校へ入学。 宝塚音楽学校で音楽のレッスンを受け、在学中に渡辺プロダクションのオーディションに合格したことを機に上京します。 1962年に、「ボッサ・ノバでキッス」でキングレコードからデビューした梓みちよ。 翌1963年には、作詞に永六輔、作曲に中村八大という当代きっての売れっ子コンビを迎えてリリースした「こんにちは赤ちゃん」で100万枚を超える大ヒットを記録しました。 こうして一躍有名歌手の仲間入りを果たした梓みちよは、大人路線にイメージ転換を図り、1974年の「二人でお酒を」で再び大ヒット。 1976年に発表した吉田拓郎作曲の「メランコリー」は翌年まで売れ続けるロングヒットとなり、レコード会社を移籍した1979年リリースの「よろしかったら」など、さらに人気曲を増やしていきました。 梓みちよが結婚、離婚を経て20年以上も不倫していたお相手とは? デビュー当初から清純派をウリにしていた梓みちよは、実のところ、10代で飲酒や喫煙を行うなど、世間のイメージとは真逆の素顔を持っていました。 そのため、会社の求めるイメージと真の姿との矛盾に悩んでいた梓みちよに、結婚という転機が訪れます。 しかし、1971年に俳優の和田浩治と結婚した梓みちよは、翌1972年にあっさりと離婚。 週刊誌のインタビューでは、「あの人はせいぜい同棲までの男だった」と元夫を罵倒しました。 もちろん和田浩治も黙ってはおらず、梓みちよの離婚劇は泥沼化していくことになります。 その後、梓みちよの交際相手だと報じられたのは、元プロ野球選手の東尾修でした。 妻子のいた東尾修とは不倫関係ということになりますが、交際は20年以上にもわたって続いたとも伝えられています。 とはいえ、ライオンズの名ピッチャーとして名を馳せ、球界屈指のプレイボーイであった東尾修は関係を問われてもずっとノーコメント。 対する梓みちよは、「大人の関係」と不倫を認める大胆な発言をして世間を驚かせました。 梓みちよの恩人・永六輔が「こんにちは赤ちゃん」と一緒に贈った言葉とは? 永六輔とのエピソード 日本歌謡界をけん引してきた作詞家・永六輔の訃報に際して、梓みちよはこう語りました。 人気曲「こんにちは赤ちゃん」の作詞を担当した永六輔に、梓みちよは、「母親でもないのにどう歌ったら良いか分からない」と訴えました。 すると永六輔は、「女性はみんな母性本能があるものなんだ。 胸に玉のような可愛い赤ちゃんを抱いているのを思い浮かべて歌えばよい」とアドバイスしたと言います。 永六輔が贈った言葉を、昨日のことのように覚えていると言う梓みちよは、「永さんなしでは、梓みちよという歌手は存在しなかった」と。 清純派のイメージそのものであった「こんにちは赤ちゃん」を歌うことを封印した時期もあったという梓みちよですが、歌の良さを深く理解した今は、自身のコンサートなどでもよく歌っているそうです。 中尾ミエとの関係 TOKYO MXのバラエティ番組「5時に夢中!」で、梓みちよ絡みの悩みを告白したのは中尾ミエです。 年代も近く、同じ時期に活躍していた中尾ミエは、「『こんにちは赤ちゃん』よく聴いていました」と、梓みちよと間違えられることがあるとか。 梓みちよと中尾ミエは、デビュー当時に同じ渡辺プロダクションに所属しており、下宿先も同じだったことから取っ組み合いの喧嘩をすることもあった仲。 喧嘩するほど仲が良いと言いますが、2人のライバル関係は今なお続いているのかもしれません。 昭和の歌謡界で数々の人気曲を歌い確固たる地位を築いた一方、私生活では、結婚後の泥沼離婚劇に加えて、東尾修との不倫など、週刊誌を賑わせることもあった梓みちよ。 現在はプロデュースした化粧品の売れ行きも好調で、実業家として優れた手腕も見せています。 たとえ批判を浴びながらも、己の道をたくましく生き抜いてきた梓みちよは、より自由な人生を手に入れた今、ますます輝いていくことでしょう。

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